ブルネイの海事法を弁護士が解説

東南アジアのボルネオ島北部に位置し、南シナ海に面するブルネイ・ダルサラーム国(以下、ブルネイ)は、豊富な石油・天然ガス資源を背景に経済発展を続けてきた国家です。同国の経済構造において、エネルギー資源の輸出や関連インフラの維持は極めて重要であり、それを支える海上輸送の安全確保と海洋権益の保護は国家の生命線とも言える役割を担っています。このような背景から、ブルネイの海事法制は国際基準に厳密に準拠しつつ、自国の海洋権益を強固に守るための精緻な枠組みを構築しています。
本記事では、ブルネイでのビジネス展開や海事産業への参入を検討している日本人の経営者や法務担当者に向けて、ブルネイの海事法に関する網羅的かつ詳細な解説を提供します。ブルネイの海事法は、主に船舶の登録、安全基準、船員の労働条件等を包括的に規定する2002年商船法(Merchant Shipping Order,)を中核としています。また、国際連合海洋法条約(UNCLOS)の原則を強く支持し、南シナ海における平和的解決と航行の安全を重視する姿勢を鮮明にしています。さらに、海事および港湾行政を一元的に管轄する機関としてブルネイ・ダルサラーム海事港湾庁(MPABD)が設立されており、強力な規制や許認可権限を行使しています。
本記事の全体的な要点として、第一にブルネイはイギリス・コモンロー(英米法)の法体系を引き継いでおり、船舶の差押え(Ship Arrest)などの実務において、大陸法系に属する日本の法制度とは根本的な考え方が異なる対物訴訟(Action in Rem)の概念が適用される点が挙げられます。第二に、船舶登録においてはクローズドレジストリ(自国籍船主義)を採用しており、登録企業に対して法令で明確な最低資本金要件を課すことで、海運事業者の強固な財務基盤を要求しています。第三に、海洋環境保護に関して、油濁損害に対する厳格な無過失責任や強制保険制度を定めた国際条約を国内法化しており、環境リスクに対して極めて厳格な態度をとっています。これらの基本法制度から船舶登録、海洋環境保護、そして船舶の差押えに関する実務と具体的な判例に至るまで、日本法との違いを交えながら体系的に解説します。
この記事の目次
ブルネイの基本法制度と管轄機関
商船法(Merchant Shipping Order)の全体構造と適用範囲
ブルネイの海事法制の根幹を成すのが、2002年に制定された商船法(Merchant Shipping Order,)です。この法令は、旧商船法(Merchant Shipping Act, Cap.145)を全面的に廃止して制定されたものであり、ブルネイにおける海事関連のあらゆる事項を網羅的に規定しています。
具体的には、船舶の登録制度(第2部)、船員の配乗と資格(第3部)、船員の労働条件と賃金(第5部)、船舶の安全と検査(第7部)、航行の安全(第8部)、海難事故の調査(第9部)、法的責任と責任制限(第10部)、難破船と海難救助(第11部)など、海運ビジネスに関わる主要なルールがこの法令一つに集約されています。商船法の大きな特徴は、国際海事機関(IMO)が採択する各種の国際条約の要件を国内法として直接的かつ迅速に反映させるための法的な土台となっている点です。
海上人命安全条約(SOLAS)や船員の訓練及び資格証明並びに当直の基準に関する国際条約(STCW)などの国際的な安全基準が商船法の下位規則(Subsidiary Legislation)として次々と取り込まれており、ブルネイ船籍の船舶は常に最新の国際基準を満たすことが法的に義務付けられています。
海事港湾庁(MPABD)の役割と強力な権限
ブルネイにおける海事および港湾に関する行政管轄は、長らく政府の海事局(Marine Department)および港湾局(Ports Department)に分散していました。しかし、行政の効率化と海事産業の国際競争力強化を目的として、2017年9月28日に施行された「ブルネイ・ダルサラーム海事港湾庁法(Maritime and Port Authority of Brunei Darussalam Order,)」により、これらの組織が統合され「ブルネイ・ダルサラーム海事港湾庁(MPABD)」が設立されました。
MPABDは独立した法人格(Body Corporate)を持つ法定機関であり、ブルネイ全域の港湾開発、海上交通の安全管理、船舶の登録、水先案内や曳船などの海事サービスの許認可、さらには海洋環境保護の監視に至るまで、極めて広範な権限を独占的に行使します。日本においては、海事行政は国土交通省海事局が担い、港湾管理は各地方自治体(港湾管理者)が担うという形で権限が分散していますが、ブルネイではこれらがMPABDに一元化されています。この組織構造から、ブルネイにおいては許認可手続きや行政指導の意思決定が強力かつ迅速に行われる体制が整っているということが言えるでしょう。
MPABDの公式ウェブサイトでは、同庁の役割や権限のほか、「Maritime and Port Authority of Brunei Darussalam Act(Chapter 222)」や「Merchant Shipping Order, 2002」など、ブルネイの主要な海事関連法令が案内されています。実務においては、これらの法令や関連規則の最新状況を確認することが重要です。
参考:ブルネイ・ダルサラーム海事港湾庁(MPABD)「概要」
参考:ブルネイ・ダルサラーム海事港湾庁(MPABD)「法律・命令・規則」
ブルネイにおける船舶の登録制度と要件

クローズドレジストリの採用と厳格な最低資本金要件
世界の海運市場においては、パナマやリベリアのように外国の船主に対しても緩やかな要件で船舶登録を認めるオープンレジストリ(便宜置籍船制度)を採用する国が多く存在します。しかし、ブルネイはこれとは対照的に、自国と実質的なつながりのある船舶のみの登録を認めるクローズドレジストリ(Closed Registry)を採用しています。
商船法第2部および2006年商船(船舶登録)規則(Merchant Shipping (Registration of Ships) Regulations,)によれば、ブルネイ国籍の船舶として登録できる資格を持つのは、ブルネイの市民、またはブルネイの法律に基づいて設立され、ブルネイ国内に主たる事業所を置く法人(ローカルカンパニー)に厳しく限定されています。
実務上特に留意すべきなのが、登録を申請する企業に対する厳格な「最低資本金要件」です。2006年商船(船舶登録)規則第7条および第8条では、登録対象となる船舶の種類に応じて、企業が維持しなければならない最低資本金が以下のように詳細に規定されています。
| 船舶の区分 | 最低資本金要件(2006年商船(船舶登録)規則に基づく) |
| 一般商船(曳船・はしけ以外) | 対象船舶の価値の10パーセントまたは50万ブルネイドルのいずれか低い額 |
| 曳船(タグボート)またははしけ | 対象船舶の価値の10パーセントまたは25万ブルネイドルのいずれか低い額 |
| 裸傭船(ベアボートチャーター) | 25万ブルネイドル |
もし事業運営中に資本金がこの法定要件を下回った場合、同規則第9条に基づき、管轄大臣の権限によって直ちに船舶登録が閉鎖(抹消)される規定が存在します。
日本の船舶登録制度との比較
日本の船舶法においても、日本国民や日本の法令により設立された会社(代表取締役の全員および取締役の3分の2以上が日本国民であるもの等)のみに日本船舶の所有を認める自国籍船主義が採用されており、この基本理念においてはブルネイと共通しています。しかしながら、大きな違いは企業の財務要件に対する法的なアプローチにあります。
日本の船舶法や会社法では、船舶を登録する主体に対して「船舶の価値に対する一定割合の資本金」や「固定された高額な最低資本金」を船舶登録の絶対条件として課すような海事に特化した財務要件は存在しません。ブルネイがこのような厳格な資本金要件を法令で明記している事実から、同国が海運事業者の倒産リスクや重大事故発生時の賠償能力欠如を極端に警戒しており、初期段階から強固な財務基盤を持つ企業のみを自国の海運市場に参入させる明確な意図を持っているということが言えるでしょう。
したがって、日本企業がブルネイで現地法人を設立して船舶を登録・運航する際には、日本国内の実務感覚以上に初期資本の適法な確保と維持に最大限の注意を払う必要があります。
ブルネイの海洋法秩序と海洋環境の保護
国連海洋法条約(UNCLOS)に基づく海洋権益と航行の安全
ブルネイは国際連合海洋法条約(UNCLOS)を批准しており、これを自国の海洋法秩序および外交方針の絶対的な基盤としています。ブルネイの排他的経済水域(EEZ)や大陸棚の主張は、UNCLOSの規定に厳密に則って行われています。例えば、「ブルネイ・ダルサラーム漁業水域法(Fishery Limits Act)」により、領海基線から200海里の範囲を自国の漁業水域として宣言しており、外国漁船の無許可操業を厳重に禁止する一方で、自国の海洋資源を法的に保護しています。
南シナ海における領有権問題についても、ブルネイは当事国の一つ(例えばスプラトリー諸島のルイザ礁の領有権主張など)ですが、他国との境界画定においては武力や威圧を排し、国際法に基づく平和的解決を一貫して重視しています。実際に2009年には、隣国マレーシアとの間で長年の懸案であった海洋境界線やEEZの画定について、二国間交渉と書簡の交換を通じて平和的かつ法的な枠組みで最終解決に至った実績があります。この法の支配を重んじる外交姿勢は、シーレーンの安全確保が不可欠な日本の海運ビジネスにとっても、予測可能性が高く安定した事業環境を提供していると評価できます。
油濁損害に対する民事責任と国際条約の国内法化
海洋環境の保護に関して、ブルネイは国際的な枠組みを極めて厳格に国内法に組み込んでいます。まず、「2005年海洋汚染防止法(Prevention of Pollution of the Sea Order,)」は、MARPOL 73/78条約を国内法化したものであり、船舶からの油、有害液体物質、廃棄物(プラスチック等)の排出を厳格に禁止しています。この法令に違反して油を排出した場合、最大100万ブルネイドルの罰金や2年以下の拘禁刑という非常に重い刑事罰が科される可能性があります。
さらに民事上の実務において極めて重要なのが、「2008年商船(油濁汚染に対する民事責任および補償)法(Merchant Shipping (Civil Liability and Compensation for Oil Pollution) Order,)」です。これはCLC 1992(1992年油濁損害民事責任条約)に基づくものであり、油の流出による環境被害や浄化措置の費用に対して、船舶所有者に「厳格な無過失責任」を負わせています。天災地変や第三者の故意による行為などのごく限られた免責事由を除き、船主は損害を賠償しなければなりません。
この法令の第6条では、船舶の総トン数に応じた責任限度額が詳細に規定されています。
| 船舶の総トン数 | 責任限度額(SDR:特別引出権) |
| 5,000トン以下 | 451万SDR |
| 5,000トン超 | 451万SDRに加え、5,000トンを超える部分について1トンあたり631SDRを加算(上限は最大8,977万SDR) |
また、2,000トン以上の油をばら積みで輸送する船舶には、この責任を担保するための保険加入または金銭的保証の維持が第12条により義務付けられており、無保険の船舶はブルネイの港湾への入出港が一切禁止されます。万が一事故が発生した場合、海事局長は損害賠償のための十分な保証金が提供されるまで、該当する船舶を拘留(Detention)する強力な権限を持っています。
日本の「油濁損害賠償保障法」もCLC 1992を国内法化したものであるため、無過失責任や責任制限の枠組み自体は共通しています。しかし、ブルネイ領海内での環境汚染事故は、即座に船舶の長期拘留や高額な刑事罰・制裁金に直結する傾向が強いため、現地の環境法制に対する運航管理上のコンプライアンス体制の構築が日本以上に厳格に求められます。
ブルネイにおける船舶の差押え(Ship Arrest)と海事紛争の実務

対物訴訟(Action in Rem)と日本の仮差押えとの違い
海事請求権に基づく債権回収や紛争解決の実務において、ブルネイ法と日本法の間で最も根本的な違いが現れるのが「船舶の差押え(Ship Arrest)」の法理論と手続きです。
日本法(大陸法系)においては、船舶の差押えは民事保全法に基づく「仮差押え」や民事執行法に基づく「強制執行」として行われます。これらはあくまで債務者(船舶所有者など)の一般財産を対象とする「対人訴訟(Action in Personam)」の延長線上にあり、債務者の責任財産としての船舶を差し押さえるという考え方に基づきます。したがって、債務者と船舶の所有者が異なる場合(例えば、定期傭船者が燃料代を未払いの場合に、その船舶を所有する全く別の船主の財産を差し押さえる場合など)には、原則として船舶自体の差押えは非常に困難です。
これに対し、イギリスのコモンローの伝統を汲むブルネイでは、海事紛争は高等裁判所(High Court)の海事管轄権(Admiralty Jurisdiction)に服し、「対物訴訟(Action in Rem)」という独自の強力な手段が認められています。対物訴訟とは、問題を引き起こした「船舶そのもの(Res)」を被告として直接訴えを提起する手続きです。船員の賃金未払い、海難救助報酬、船舶の衝突による損害賠償請求権、または船舶に対する抵当権など、一定の海事請求権(Maritime Claim)や海事先取特権(Maritime Lien)が発生している場合、債権者は現在の所有者が誰であるかにかかわらず、その船舶自体を追及して逮捕・差押えの令状(Warrant of Arrest)を執行することができます。
海事請求権の行使と実務上のリスク
ブルネイの実務において、高等裁判所を通じた船舶の差押えは、海事請求権が存在し、手続き上の規則が遵守されている限り、裁判所の裁量を要さず「権利として(as of right)」比較的迅速に認められる傾向があります。
この制度の下では、債権者は船舶の出港を直ちに差し止めることが可能であり、船舶を解放するためには、船主は高額な保証金(Security)を裁判所に供託するか、P&Iクラブ等の金融機関が発行する保証状(Letter of Undertaking)を差し入れるよう強い圧力を受けます。日本企業がブルネイ水域で海事トラブルに巻き込まれた場合、このコモンロー特有の迅速かつ強力な差押え手続きによって突然船舶の運航が停止し、莫大な経済的損失を被るリスクがあります。一方で、自らがサービスを提供して代金が未回収となった債権者の立場に立った場合には、対象船舶がブルネイの管轄水域に入った瞬間に差押えを行うことができ、極めて有効かつ強力な債権保全手段となり得るということが言えるでしょう。
ブルネイの海事法に関する重要な判例
ブルネイの裁判所における海事紛争の実際の運用を知る上で、実務的な示唆に富む近年の重要な判例を2つ解説します。
仲裁地と裁判管轄に関する判例(ブルネイ控訴院、2021年)
第一の判例は、ブルネイ控訴院(Court of Appeal of Brunei Darussalam)にて2021年に下された、用船契約(Charterparty)に関する仲裁地と裁判管轄に関する判決です。
この事件では、2014年1月から2017年1月までの期間にわたる船舶の用船契約において、被告である傭船者(Charterer)からの支払いが滞ったため、原告である船主(Owner)がブルネイ高等裁判所(High Court of Brunei Darussalam)に未払い料金の請求訴訟を提起しました。これに対し被告側は、契約内に含まれていた仲裁条項を根拠として、シンガポールでの仲裁手続きの結果が出るまでブルネイでの訴訟手続きを停止(Stay of proceedings)するよう申し立て、一審ではこの停止命令が認められました。
しかし、原告の控訴を受けたブルネイ控訴院は、この一審の停止命令を破棄しました。契約上の仲裁条項は、ブルネイとシンガポールの両方を潜在的な仲裁地として言及しているように見え、解釈の余地が生じる曖昧な記載となっていました。しかし控訴院は、契約全体の趣旨を踏まえた「常識的な解釈(Commonsensical approach)」を採用し、当該仲裁の適切な管轄地(Seat of arbitration)は明確にブルネイであると認定し、被告の控訴を棄却してブルネイでの司法手続きを進める判断を下しました。
この判決から、ブルネイの裁判所が自国の海事管轄権と仲裁地としての主権的解釈を明確に示し、契約書面の曖昧な条項に対しても、形式的な文言のみに囚われず実質的かつ実務的な解釈を下す傾向があるということが言えるでしょう。契約締結段階での紛争解決条項の明確化がいかに重要であるかを示す教訓的な事例です。
船舶の安全運航義務違反に関する判例(クアラブライト治安判事裁判所、2021年)
第二の判例は、海上交通の安全義務違反に関する刑事訴追の事例です。2021年、クアラブライト治安判事裁判所(Kuala Belait Magistrate’s Court)において、Pg Shahyzul Khairuddien Pg Abd Rahman治安判事の審理の下、船舶「QESS USV1」の所有者であるQESS USV Sdn Bhd社を含む3社に対し、安全運航義務違反を問う裁判が行われました。
検察側(Public Prosecutor)は、同社が船舶を安全に運航するための「すべての合理的な措置(all reasonable steps)」を怠ったとして、商船法(Merchant Shipping Order,)第123条(3)に基づく刑事責任を追及しました。しかし、この事件は事故発生から公判開始までに約4年という長期間を要し、その間に検察側の担当者や治安判事が幾度も交代する事態となりました。さらに、検察側の重要な証人であった従業員の多くが既にブルネイ国外へ退去しており、出廷を確保することができなかったため、立証が極めて難航しました。結果として、証拠不十分により治安判事は被告企業らに無罪判決を言い渡しました。
その後、ブルネイの安全衛生環境国家庁(SHENA)は、司法長官府(AGC)に対してこの無罪判決をブルネイ高等裁判所へ控訴するかどうかの判断を委ねる事態となりました。この事例から、ブルネイ当局が海事安全基準の違反に対しては法人であっても厳格に刑事責任を追及する姿勢を持っていること、そして海事事故発生時における迅速な証拠保全や外国人乗組員の適切な管理がいかに重要であるかということが言えるでしょう。
まとめ
本記事では、ブルネイ・ダルサラーム国の海事法について、その基本となる「商船法(Merchant Shipping Order,)」の構造から、海事港湾庁(MPABD)の強力な一元的管理体制、日本法とは異なるクローズドレジストリにおける厳格な資本金要件、そして国際条約に基づく環境保護制度に至るまでを詳細に解説しました。さらに、コモンロー特有の「対物訴訟(Action in Rem)」に基づく船舶の差押え手続きや、実際の裁判例の動向から見えてくる法的リスクと対処の実務についても触れました。
ブルネイにおける海事ビジネスは、透明性が高く国際基準に合致している一方で、安全管理や資本要件、環境規制に対する違反には極めて厳格なペナルティと強制措置が伴います。このような高度に専門的かつ他国の法体系が絡む複雑な海事規制への対応や、現地でのビジネス展開に伴う契約書の整備、トラブル発生時の管轄や仲裁地の確認などについて、モノリス法律事務所が法的な観点からサポートいたします。事業の安全な推進とリスクの未然防止のため、ぜひ当事務所にご相談ください。
カテゴリー: クロスボーダー
タグ: ブルネイ・ダルサラーム国海外事業
































