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法律記事MONOLITH LAW MAGAZINE

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イギリスでの契約書作成で問題となる契約法と「約因」

イギリスでの契約書作成で問題となる契約法と「約因」

グローバル化が進む現代において、多くの日本企業が新たな市場としてイギリスへの進出を検討されています。イギリスは、その歴史と安定した法制度から、魅力的なビジネス拠点として知られています。しかし、日本の法体系が大陸法(民法)を基盤としているのに対し、イギリス法は判例法(コモンロー)を基盤としており、両者の契約法には根本的な違いが存在します。

この法的差異を十分に理解しないままビジネスを進めると、契約が無効と判断されたり、予期せぬトラブルに直面したりするリスクがあります。特に、日本の民法には存在しない「約因(Consideration)」という概念と、日本法では広く適用される「信義誠実義務(Duty of Good Faith)」が原則として存在しないという事実は、イギリスでのビジネス展開、特に契約書の作成や交渉といった場面で、経営者や法務担当者が最初に乗り越えるべき重要なハードルとなります。

本稿では、この二つの核心的な概念に焦点を当て、日本法との決定的な違いを解説します。

イギリス契約法における「約因(Consideration)」

約因の定義と基本原則

イギリス法において、契約が法的に有効で、裁判所によって強制力を有すると認められるためには、「約因(Consideration)」の存在が不可欠です。約因とは、契約当事者間で「価値のある何か(something of value)」が相互に交換されることを要求する原則であり、一種のquid pro quo(代償)として機能します。

この「価値のある何か」とは、金銭や物品に限定されません。サービス、約束、行為、あるいは権利の放棄(forbearance)といった、一方の当事者にとって利益(benefit)となり、他方の当事者にとって不利益(detriment)となるもの全てが含まれます。イギリスの判例法における古典的な定義として、Currie v Misa 事件の判決文では、約因とは「約束者が何らかの権利、利益、利益または便益を得る結果、約束受領者が何らかの権利放棄、不利益、損失または責任を与え、被り、または引き受けた場合に存在する」と定義されています。

対価の相当性が問われないこと

約因に関する重要な原則の一つに、「約因は有効でなければならないが、相当である必要はない」というものがあります。これは、約因として交換されるものが「価値」を有している必要があるものの、その価値が客観的に見て契約の反対給付と釣り合っているかどうかは問わない、という考え方です。イギリスの裁判所は、当事者が合意した取引の商業的な妥当性について判断を下す役割はないと考えています。

この原則を最も象徴的に示すのが、Chappell & Co Ltd v Nestle Co Ltd 事件です。この裁判では、ネスレ社がレコードと引き換えに、金銭に加えてチョコレートバーの包み紙3枚の提出を求めた行為が、約因として有効かが争われました。裁判所は、たとえ包み紙にそれ自体としての客観的な価値がなく、受け取った後すぐに捨てられるものであったとしても、当事者がそれを交換の対象として合意した以上、約因として有効であると判断しました。この判断は、イギリス法が「契約自由の原則」を深く尊重しており、当事者自身が自らの商業的な利益とリスクを最もよく判断できるという思想に基づいていることを示唆しています。

過去の約因が無効となること

イギリス法には、「過去の約因は無効(Past consideration is no consideration)」という厳格な原則も存在します。これは、約束がなされるより前に完了した行為は、その約束に対する有効な約因とはなり得ないというものです。例えば、Roscorla v Thomas 事件では、馬の売買契約成立後に、売主が馬に瑕疵がないことを約束しましたが、この約束は契約とは独立したものであり、買主が既に支払いを済ませていた(過去の約因)ため、法的強制力を持たないと判断されました。

しかし、この原則には実務上重要な例外が存在します。約因となる行為が、後から約束がなされる以前に、約束者の要請に基づいて行われていた場合です。この場合、約因となった行為と後になされた約束は、単一の合意の一部として一体的に扱われます。

Lampleigh v Braithwait 事件では、被告の依頼で原告が尽力した行為に対し、後日被告が報酬を約束しましたが、裁判所は、後日の約束が当初の依頼と関連しているとして、過去の行為が有効な約因となると判断しました。この例外は、厳格な約因のルールと、商業的な現実との間の緊張関係を調整する役割を果たしていると言えます。 

日本法との相違点

約因の概念は、日本法には存在しません。日本の民法は、契約を「当事者の意思表示の合致」のみで成立するものと定めています(民法第522条)。このため、対価を伴わない贈与契約のような無償契約であっても、当事者間の意思が合致すれば、完全に有効な契約として成立します。

イギリス法と日本法のこの決定的な違いは、単なる法的な条文の違いにとどまりません。イギリス法が契約を、厳密な「交換」を前提とした「取引」と捉えているのに対し、日本法は当事者の「合意」を契約の本質と見なしています。したがって、日本企業がイギリスでビジネスを行う際には、口頭での約束や相互の信頼に基づいた無償の協力といった、日本であれば法的に有効となりうる行為であっても、約因の欠如によってイギリス法下では強制力を持たない可能性が高いという事実を深く認識しておく必要があります。

日本法イギリス法
契約の成立要件当事者の「意思表示の合致」のみ 「意思表示の合致」に加え、「約因(Consideration)」が必須 
無償契約の効力有効に成立する 原則として無効 
信義誠実義務の原則民法第1条第2項に明文規定。契約関係全般に広く適用される 原則として一般的義務は存在しない。例外的に「リレーショナル契約」で黙示されることがある 
「阿吽の呼吸」・暗黙の了解重要な判断要素となりうる 法的効力を持たず、裁判では考慮されない 
契約交渉段階における義務信義則に基づき、不当破棄による損害賠償義務が発生しうる 原則として義務は発生しない 
裁判所の役割当事者の公平性を重視し、信義則を適用して契約の隙間を埋めることがある 「契約自由の原則」に基づき、書面化された契約条項を厳格に適用する 

イギリス契約法における「信義誠実義務」

イギリス契約法における「信義誠実義務」

信義誠実義務の不存在

イギリス法には、契約当事者に対し、一般的に信義誠実義務(a general duty of good faith)を課す法理は存在しません。この原則の根底にあるのは、契約の不確実性を回避し、各当事者が自身の商業的利益を最大限に追求する自由を尊重するという考え方です。

したがって、イギリスの裁判所は、たとえ一方の当事者の行為が他方にとって不利益な結果を招いたとしても、それが契約書に明記された条項と矛盾しない限り、その行為を是認する立場を取ります。契約は、当事者が合意したすべての条件を網羅する「完全な法典(complete code)」であると見なされ、当事者の主観的な意図や、書面に記載されていない暗黙の了解は原則として考慮されません。

日本法との比較

このイギリス法の原則は、日本法とは根本的に異なります。日本の民法第1条第2項は、「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない」と明確に定めています。この「信義誠実の原則(信義則)」は、契約関係に限らず、広範な法的関係に適用されるものです。

日本法においては、この信義則に基づき、契約締結前の交渉段階であっても、相手方に対する「説明義務」や、一方的な交渉の打ち切りに対する「損害賠償義務」が発生しうるとの判例があります。これは、日本のビジネス慣習である「阿吽の呼吸」や暗黙の了解が、法的な義務として発展してきた結果と言えるでしょう。 

一方、イギリス法では、契約締結前の交渉において、当事者に信義誠実に行動するよう求める義務は原則として存在しません。したがって、日本企業が期待するような、契約外の状況での相手方からの協力や配慮は、書面化された契約書に明記されていない限り、法的に保護されない可能性が極めて高いのです。この法的な違いは、日本とイギリスの商慣習の違いをそのまま反映していると言えます。 

近年のイギリス判例とリレーショナル契約

例外としての「リレーショナル契約」の登場

イギリス法が信義誠実義務を原則として否定している一方で、近年、長期的な協力関係を前提とする「リレーショナル契約(Relational Contracts)」においては、例外的に信義誠実義務が黙示的に認められるケースが散見されるようになりました。この議論は、2013年のYam Seng Pte Ltd v International Trade Corporation Ltd 事件から始まり 、その後、Bates v Post Office 事件において、その概念がより具体的に示されました。

この判例では、リレーショナル契約の非網羅的な特徴として、以下のような点が挙げられています。

  • 契約に信義誠実義務の黙示を妨げるような明確な条項がないこと。
  • 長期間にわたる関係を前提とし、当事者間に長期的な関係を継続する相互の意図があること。
  • 当事者が、誠実かつ忠実にその役割を果たす意図があること。
  • 契約の精神や目的が、書面による契約に網羅的に記載され得ないこと。
  • 当事者間のコミュニケーションや協力が高度であり、相互の信頼と信義に基づいた予測可能な履行が求められること。
  • 一方または双方が、事業に対して多大な投資を行うこと。

「リレーショナル契約」の例外性

しかし、この新たな潮流は、あくまで例外的なものであり、イギリス法における信義誠実義務の原則を根本から覆すものではないという点が極めて重要です。Candey Ltd v Bosheh 事件の判決で、裁判所は「近年、契約がリレーショナル契約であると主張しようとする原告が殺到しているが、成功したケースはごくわずかである」と述べており、この原則が安易に適用されるものではないことが示されています。

さらに、裁判所は、たとえ明示的な信義誠実条項が存在する場合でも、その解釈は厳格に行われます。Compound Photonics Group Ltd 事件では、裁判所は、明示された信義誠実義務が、当事者自身の商業的利益を諦めることを要求するものではないと判断しました。これは、裁判所が、書面化された契約の明確性と、当事者の自由な商業活動という、イギリス法の根幹をなす原則を堅持していることの表れです。 

日本企業がイギリスビジネスで留意すべきポイント

日本企業がイギリスビジネスで留意すべきポイント

契約書の「網羅性」と「明確性」

イギリス法の下では、契約書こそが唯一の、そして最も重要なリスク管理ツールとなります。イギリスの法務実務は、書面による契約が当事者のすべての権利と義務を網羅する「完全な法典」であるという前提に立っています。

日本の商慣習である「阿吽の呼吸」や、書面に記載されていない「暗黙の了解」に頼ることは、法的保護を得られない可能性が非常に高いです。したがって、イギリスでの契約交渉や契約書作成においては、将来起こりうるあらゆる事態を想定し、詳細かつ網羅的な条項を盛り込むことが極めて重要となります。

約因と信義誠実義務の明記

イギリス法に準拠する契約書を作成する際には、以下の点を明確に記載することが実務上の要点となります。

  • 約因(Consideration)の明記: 契約の有効性を確保するため、各当事者が提供する「価値のある何か」を契約書上で明確に記載することが推奨されます。たとえそれが1ポンドのような名目的な金額(Nominal consideration)であったとしても、有効な約因となりえます。
  • 信義誠実義務(Duty of Good Faith)の明記: イギリス法において、明示的な信義誠実条項は有効です。この条項を盛り込むことで、当事者間の協力関係を促し、不誠実な行動(dishonest conduct)や商業的に容認しがたい行為(commercially unacceptable conduct)に対して、法的根拠に基づいた主張を行うことができるようになります。ただし、その適用範囲は条項の文言によって厳格に判断されるため、その目的と適用範囲を慎重に設計する必要があります。 

まとめ

本稿で解説した通り、イギリスの契約法は、約因の必須性、そして信義誠実義務の不在という点で、日本法とは対照的な性質を有しています。これは、両国の法体系が、契約を成立させる上での哲学や、裁判所が当事者間の関係に介入する度合いにおいて、根本的に異なることを示しています。

日本の企業や法務担当者がイギリスでのビジネスを成功させるためには、この法律の根本的な違いを深く理解し、それに基づいたリスクマネジメントを行うことが不可欠です。口頭での約束や相互の信頼に頼るのではなく、万が一の事態に備え、すべての合意内容を網羅的かつ明確に記載した契約書を作成することが、法的な保護とビジネスの確実性を確保する上で最も重要な鍵となります。

当事務所は、イギリス法を含む国際商取引に関する深い専門知識と豊富な実務経験を有しています。イギリス進出を検討されている日本企業の皆様に対し、契約交渉の段階から、約因や信義誠実義務といったイギリス法特有の概念を踏まえた契約書のレビュー・作成、そして紛争解決に至るまで、戦略的なリーガルサポートを提供いたします。イギリスのビジネス環境において、法的リスクを最小限に抑え、確実な事業展開を実現するため、お気軽にご相談ください。

関連取扱分野:国際法務・海外事業

弁護士 河瀬 季

モノリス法律事務所 代表弁護士。元ITエンジニア。IT企業経営の経験を経て、東証プライム上場企業からシードステージのベンチャーまで、100社以上の顧問弁護士、監査役等を務め、IT・ベンチャー・インターネット・YouTube法務などを中心に手がける。

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