標準必須特許(SEP)とFRAND条件:インドにおける権利行使

インドの通信やIoT分野へビジネス展開を進める日本企業にとって標準必須特許(SEP)とFRAND条件をめぐる法的リスクの管理は重要な課題です。インドの司法は特許権の暫定的な保護に積極的で、特許の有効性が最終的に判断される前の段階であっても一定の条件下で暫定的な差止請求や保証金の供託を認める傾向が強まっています。その一方で本案審理においては特許権者に対し必須性および侵害の厳格な立証を求めており、2025年以降はその請求が退けられる判決も複数出ています。
特に2025年のデリー高等裁判所の判例は、SEPの権利行使実務やFRAND条件の立証責任の所在について明確な基準を示しました。実施者側による不当な「ホールドアウト(交渉引き延ばし)」が許されない以上、インド市場の最新の法令や制度を踏まえた紛争戦略の構築が急務です。
本記事では、2025年以降の最新判例を交えながら、インドにおけるSEPの権利行使やFRAND条件に関する実務を詳しく解説し、日本企業がとるべき紛争戦略を提示します。
この記事の目次
インド特許法に基づく特許権の保護と標準必須特許の法的枠組み
インド特許法における排他的権利と救済措置
インドにおける特許権の保護は1970年特許法(The Patents Act, 1970)に基づいています。同法第48条は特許権者に対し、第三者が同意なしに特許製品の製造、使用、販売の申出、販売、または輸入を行うことを排除する排他的権利を付与しています。また同法第108条は特許侵害訴訟における救済措置として、差止命令(裁判所が適当と認める条件を付すことができます)と、原告の選択による損害賠償または侵害者利益の吐き出し(account of profits)を規定しています。さらに同条第2項は、侵害品および侵害品の製造に主として用いられる材料・器具の押収、没収または廃棄を命じうると定めています。
参考:India Code(インド政府法令データベース)|The Patents Act, 1970 (Act No. 39 of 1970)
標準必須特許(SEP)とは特定の技術標準(4Gや5Gなどの通信規格)を実装する上で回避不可能な特許を指します。SEP権利者は標準化団体に対してFRAND条件(公平、合理的、かつ非差別的な条件)でライセンスを提供する宣言を行います。もっともインドの法令上SEPに関する独立した条文はなく、通常の特許法および2002年競争法の枠組みの中で司法判断が形成されています。そのため裁判所の解釈や判例が実務において決定的な意味を持ちます。
日本の特許法との比較とインドの断固たる司法姿勢
日本の特許法においても特許権者には独占排他権が認められ、侵害に対する差止請求(第100条)が規定されるとともに、損害賠償請求(民法第709条。特許法第102条が損害額の推定等を規定)が認められており、基本的な法構造はインドと類似しています。しかしSEP訴訟の実務で留意すべき重要な違いは、インドの裁判所の断固たる姿勢にあります。日本では特許の有効性や侵害の成否が本案訴訟で十分に審理される傾向が強く、実施者側がFRAND条件でのライセンスを受ける意思(ウィリングネス)を有することを自ら主張立証できた場合には、差止請求は権利の濫用にあたるとして認められにくいという実務が定着しつつあります(知的財産高等裁判所大合議 2014年5月16日決定)。
これに対しインドの裁判所は、特許の有効性が最終的に判断される前の暫定段階であっても積極的な救済を与えます。特許権者が特許の必須性を一応(prima facie)立証しFRAND条件でのライセンス提供の意思を示しているにもかかわらず、実施者が正当な理由なく交渉を引き延ばす場合、裁判所は暫定的な差止請求を認めるか、あるいは過去の販売台数に基づく暫定的なロイヤルティの供託を命じます。この違いを以下の表にまとめます。
| 比較項目 | 日本におけるSEP紛争の実務傾向 | インドにおけるSEP紛争の実務傾向 |
| 差止請求のハードル | 比較的高く、本案訴訟での詳細な審理が重視される | 比較的低く、暫定段階での差止や供託命令が積極的に活用される |
| 実施者のウィリングネス | 柔軟に解釈され、誠実な交渉意思があれば差止を回避しやすい | 厳格に審査され、無断使用を続けながらの交渉遅延は不誠実と認定される |
| 有効性と権利濫用の抗弁の扱い | FRAND宣言に基づく権利濫用の抗弁が本案で正面から審理され、認められやすい | 有効性の最終判断を待たず、権利行使を優先するプロテム供託が命じられる |
このようにインドでビジネスを行う日本企業は、日本の実務感覚で「ライセンスを受ける意思さえ示していれば差止はされないだろう」と高を括っていると、突然の差止命令や巨額の供託命令を受けるリスクに直面します。
2025年デリー高裁判決に見る標準必須特許(SEP)の権利行使実務

Philips v. Implementers等における特許侵害の厳格な証明
インドにおけるSEPの権利行使実務を大きく変化させ、特許権者への過度な保護に歯止めをかけたのが、2025年10月13日にデリー高等裁判所が下した Koninklijke Philips N.V. v. M. Bathla 事件の判決です。この事件で原告のPhilipsは、自社のデジタル伝送システムに関する特許(インド特許第175971号)がMPEG-1規格のSEPであると主張し、被告によるVCDの製造販売の差止と損害賠償を求めました。
参考:Delhi HC(デリー高等裁判所)|判例 Koninklijke Philips N.V. v. M. Bathla(2025-10-13/CS(COMM) 533/2018)
この判決で裁判所は、原告が当該特許の標準必須性を立証できていないとしたうえで侵害の立証もないと判断し、原告の請求を全面的に棄却しました。裁判所は、被告製品が規格に準拠していることを示すだけではSEPの必須性も侵害も立証されないとし、原告のクレームマッピングは規格のどの必須部分が当該特許の使用を必要とするのかを特定していない点で根本的に欠陥があると判示しました。裁判所はさらに、2025年コンピュータ関連発明(CRI)審査ガイドラインを参照し、本件特許が構成要素からなるシステム(物)のクレームであることを確認しました。そのうえで、2022年デリー高等裁判所特許訴訟規則(High Court of Delhi Rules Governing Patent Suits, 2022)が求める精緻なクレーム対製品の対比表(SEPの場合は規格を介したクレームチャート)に照らし、システム特許の侵害を立証するには特許請求の範囲に記載された構成要素のすべてが被告製品に存在することを厳密にマッピングして示す必要があると判示しました。
FRAND条件と必須性に関する立証責任の所在
さらにFRAND条件と特許の必須性(Essentiality)の立証について、裁判所は特許権者に対して厳格な証拠基準を設定しました。この判決によりSEP権利者がインドの裁判所で権利を行使するためには、以下の表に示す客観的な証拠の提出が求められるようになりました。
| 要求される主要な証拠 | 証拠が果たす役割と裁判所の判断基準 |
| クレームチャート(Claim Charts) | 特許請求の範囲の各構成要素が規格の必須部分と直接的に合致していることを示す厳密な対比表 |
| 標準化団体(SSO)への宣言書 | 当該特許が関連する標準化団体に対してSEPとして公式に宣言されていることを裏付ける記録 |
| 比較可能なライセンス契約 | 提示されたロイヤルティレートがFRAND条件に合致していることを証明する第三者との契約実績 |
| 独立機関の必須性評価レポート | 当事者以外の技術専門家や独立機関が当該特許の必須性を科学的に検証・認定した報告書 |
裁判所は当事者間の私的な交渉記録やオープンな協議の履歴だけではインド証拠法に基づく必須性の証明にはならないと判断しました。これによりSEP権利者に対する立証責任のハードルが引き上げられ、実施者側には根拠の薄弱な特許権行使に論理的に反論するための法的根拠が与えられました。
サプライチェーンを通じた間接侵害リスクとインド司法の判断
部品調達と特許侵害の連帯責任
サプライチェーンを通じたビジネス展開で留意すべきもう一つの重要判例が、同じくデリー高等裁判所で争われた Koninklijke Philips N.V. v. Maj (Retd) Sukesh Behl 事件です。この事件では2025年2月20日に単独法廷が損害賠償を認容する判決を下し、2026年1月5日には分割法廷が、被告らの控訴において民事訴訟法典(CPC)第41編第5規則(Order XLI Rule 5)に基づき当該金銭判決の執行を停止しました。これは無条件かつ撤回不能の銀行保証の差入れを条件とする執行停止であり、損害賠償額そのものについての終局判断ではありません。判決自体に対する本案の控訴はデリー高等裁判所に係属しており、執行停止はその控訴の結論に従うものとされています。その後、被告側はインド最高裁判所に特別許可申立て(SLP(C) No. 9528-9530/2026)を行い、同申立ては2026年3月13日に最高裁判所第4法廷で受理(admission)段階の事件として係属しました。
参考:SC(インド最高裁判所)|デイリーコーズリスト 2026年3月13日(第4法廷 item 55/SLP(C) No. 9528-9530/2026)
この事件で争われたのは、特許の有効性、被告らによる侵害の成否、当該特許がDVD技術の標準必須特許にあたるかどうか、FRAND条件でのロイヤルティ額でした。被告らは、特許方法により得られた原盤(スタンパー)を第三者の製造業者から調達していたにすぎないとして責任を争いました。裁判所はまず、本件特許にはDVDそのものを対象とする物のクレームが含まれており、被告らが複製・販売したDVDがこれを充足する以上、エンコードを誰が行ったかは侵害の成否に影響しないと判断しました。そのうえで、インド特許法には日本の特許法第101条(侵害とみなす行為)に相当する間接侵害の明確な独立規定がないため、特許法第48条(特許方法の使用、および当該方法により直接得られた製品の販売・使用等を排除する権利)を解釈しています。さらに、インドに間接侵害を正面から扱った先例がないことから米国連邦巡回控訴裁判所の判例法理を参照し、事実上の間接侵害の法理も適用しています。
裁判所は被告自身がエンコードという特許プロセスを直接実行していなくても、特許技術が組み込まれた原盤(スタンパー)を第三者から調達し商業規模で複製および販売して利益を得ている以上は共同して侵害行為を行っていると同視できると判断しました。これは部品の製造やソフトウェアの実装をインド国内外の第三者に委託し最終製品のみをインド市場で販売している企業にとって、製造を委託していると主張するだけでは特許侵害の抗弁として通用しないことを示す重要な判例です(同判決は、委託の事実が訴答段階で主張されず立証もされていない点を捉えてこの抗弁を退けています)。もっとも、サプライチェーン上の侵害が最終製品の販売者に自動的に連帯責任を生じさせるわけではありません。同じくPhilipsが原告となった別の事件(K K Bansal v. Koninklijke Philips 事件)では、デリー高等裁判所の分割法廷が2026年5月18日に、当該特許の標準必須性も侵害も立証されていないと判断したうえで、さらに特許権者自身が発明を組み込んだ基板を市場に流通させていた以上、その購入者に対して特許権を行使することはできない(国際消尽。1970年特許法第107A条(b))として侵害を否定しました。しかも同判決は、この消尽が認められるために調達先が特許権者から許諾を受けた販売店である必要はないとも判示しています。分かれ目となるのは、自社が侵害行為をどの程度支配していたか、そして当該部品が適法に市場へ置かれたものかどうかです。
インドにおける実施者のホールドアウトに対する厳格な対応

暫定的な差止請求とプロテム(Pro-tem)デポジットの強制
インドの裁判所は特許権者に対して厳格な証拠提出を求める一方で、実施者側のホールドアウト(交渉引き延ばし)に対しても厳しい対応をとっています。Intex Technologies (India) Limited v. Telefonaktiebolaget LM Ericsson 事件では、デリー高等裁判所の分割法廷が2023年3月29日に判決を下しました。さらに Lava International Limited v. Ericsson 事件では、同高等裁判所が2024年3月28日に巨額の損害賠償を命じる最終判決を下しています。
これらの判決で裁判所は、FRAND交渉における当事者双方の行動規範(FRANDプロトコル)を明確にしました。特許権者がFRAND条件に基づくライセンスの申し出を行ったにもかかわらず、実施者が対案(カウンターオファー)を提示せずに単にロイヤルティが高すぎると主張し続けたり、特許の有効性にのみ言及して交渉を遅延させたりした場合、その実施者は不誠実な実施者(unwilling licensee)とみなされます。
不誠実と認定された場合、本案判決を待つことなく暫定差止命令が下されるか、プロテム(Pro-tem)デポジットと呼ばれる暫定的なロイヤルティの供託が裁判所から強制されます。インドの裁判所は実施者がSEP技術を無断で使用して商業的利益を得ながら交渉を引き延ばすフリーライドを許容しません。FRAND条件は特許侵害を正当化する防衛手段ではなく公平なライセンス契約を促進するための枠組みに過ぎないことが司法によって繰り返し強調されています。
通信・IoT分野の日本企業がインドにおいて構築すべき紛争戦略
警告状への迅速な対応とFRAND条件の交渉プロトコル
2025年以降の一連の判例を踏まえ、インド市場で通信規格を利用した機器(スマートフォン、コネクテッドカー、スマート家電など)のビジネスを行う企業は新たなSEP紛争戦略を構築する必要があります。まずSEP権利者やライセンス管理団体から警告状(クレームレター)を受け取った場合、無視や放置をしてはなりません。沈黙や根拠のない交渉の引き延ばしは、インドの裁判所で直ちに不誠実な実施者との烙印を押され、暫定的な差止命令を招く致命的な隙となります。
戦略としては速やかに応答し、特許権者に対して前述の2025年の判決で求められた厳格な証拠の提出を要求することが重要です。具体的には規格の必須部分と特許請求の範囲を対応させた詳細なクレームチャート、標準化団体への公式な宣言書、独立機関による必須性評価レポートの開示を書面で求めます。特許権者には当該特許の標準必須性および侵害を客観的証拠によって立証する重い責任があるため、根拠の伴わない曖昧なロイヤルティ要求に対しては証拠不十分を理由に論理的に反論できます。同時に秘密保持契約(NDA)を締結した上で比較可能な第三者とのライセンス契約の開示を求めることも実務上有効な対抗手段となります。
万が一インドの裁判所で訴訟が提起された場合、最大の脅威は審理初期段階での暫定差止命令や高額なプロテム供託命令です。これを回避するためには自社が誠実な実施者であることを裁判所に客観的な記録として証明できる状態を保つ必要があります。特許権者の提示したFRANDレートが不当であると批判するだけでなく、自社の製品の利益率や当該特許技術が製品全体に与える技術的貢献度(最小販売単位の概念など)に基づいた合理的な対案を自主的に算定し提示しておくことが防御の要となります。またサプライチェーン全体での権利処理状況を把握し、部品の調達先が侵害行為を行っていないかを定期的に監査する体制も整えておくべきです。部品サプライヤーとの契約では、SEP侵害に関する補償条項(インデムニティ条項)を設けるなどの予防法務が欠かせません。
まとめ
インドにおけるSEPとFRAND条件をめぐる権利行使実務は、特許権者の保護に積極的な司法姿勢と2025年以降の判例による厳格な立証責任のバランスの中で変化を続けています。特許の有効性が最終的に判断される前の段階であっても、ホールドアウト(交渉引き延ばし)を行う実施者には暫定差止命令や巨額の供託命令が下される一方で、SEP権利者に対してもクレームチャートや比較可能なライセンス契約といった客観的証拠の提出が厳格に求められるようになっています。通信・IoT分野でインド市場に進出する企業は、警告状に対する迅速かつ誠実な対応プロトコルを整備し、対案の準備やサプライチェーン全体での特許侵害リスク管理など、最新の判例に基づいた防御戦略をあらかじめ構築しておくことが不可欠です。
モノリス法律事務所はIT関連法務に特化した高度な専門性を有しており、インド現地の提携法律事務所と緊密に連携することで最新の現地の法令や複雑な裁判手続きに迅速に対応することが可能です。SEP紛争における警告状への対応からFRAND条件の交渉、そしてインド国内での訴訟対応やサプライチェーンの契約見直しに至るまで、インド市場における法的リスクを最小限に抑えるための包括的なサポートを提供いたします。ビジネスの円滑な展開と知財戦略の保護に向けた確かな法的支援をお約束します。
モノリス法律事務所は、インド法務に関する調査および情報提供を目的として、現地法律事務所Quest IP Attorneysと非独占的な提携関係(Associate Firm / Correspondent Firm)にあります。
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