アルメニアの医療機器規制とEAEU統一登録への「規制の崖」

アルメニア共和国(以下、アルメニア)の医療機器市場は、今、極めて特殊かつ劇的な規制環境の変化に直面しています。現在、同国はユーラシア経済連合(EAEU)の加盟国でありながら、国内法上、医療機器(Medical Device)に対する製造、輸入、販売、保管に関するライセンスや登録義務が事実上存在しない、「規制ゼロ」に近い特異な状態にあります。これは、日本の医薬品医療機器等法(薬機法)によって厳格に規制されている状況とは対照的です。しかし、この簡便な市場参入環境は、EAEU統一規制への移行に伴い、2025年12月31日をもって終焉を迎えます。
2026年1月1日以降、アルメニアで医療機器を販売するためには、EAEUの定める複雑で厳格な統一登録制度に基づく承認が必須となります。特に、アルメニアには他のEAEU加盟国が持つような既存の国内登録制度が存在しなかったため、既存登録の継続という猶予措置の恩恵を受けることができません。結果として、この期限はアルメニア市場におけるビジネス継続の絶対的な境界線となり、対応の遅れは即座に市場からの撤退リスク、すなわち「規制の崖」(Regulatory Cliff)を意味します。日本の経営者や法務担当者は、この期限と、移行後のEAEU規制の具体的内容、そして必要なコンプライアンス戦略を深く理解することが不可欠です。
本記事では、この特異な「規制の崖」の背景にあるアルメニア現行法の構造的な特徴、2025年12月31日の期限が持つ法的強制力、そして2026年以降に必須となるEAEU統一登録制度の詳細と、日本企業が取るべき具体的な対応戦略を解説します。
この記事の目次
日本の薬機法とアルメニア現行法の構造的断絶:特異な「規制ゼロ」状態の根拠
アルメニアの医療機器規制の現状を理解するためには、日本の法体系との根本的な構造の違いを認識する必要があります。
アルメニア国内法における医薬品と医療機器の規制分離
日本では、医薬品と医療機器は「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」(薬機法)という単一の法律の下で一体的に規制されています。製品の販売に際しては、製品ごとの承認または認証(品目許可)が求められる他、製造販売業者に対しても業許可が必須です。この統合された法規制は、製品のライフサイクル全体を通じて、その品質、有効性、安全性を一元的に確保することを目的としています。
これに対し、アルメニア国内法は規制対象を分けています。アルメニアの「医薬品法(Law on Medicinal Products)」は、その名称が示す通り、医薬品(Medicinal Products)の流通を主に規制の対象としています。この法律に基づき、医薬品の製造、卸売、保管といった活動を行うには、アルメニア保健省によるライセンスが要求されます。また、新薬やジェネリック医薬品など、特定のカテゴリーの医薬品は国家登録が義務付けられています。
重要な構造的差異は、この「医薬品法」が医療機器をその主要な規制対象から明確に除外している点です。その結果、アルメニア国内法上、医療機器の製造、輸入、輸出、卸売、保管といった行為に対して、ライセンスの取得が要求されていません。これは、日本企業の視点から見ると、市場参入障壁が極端に低い状態にあることを示しています。
法的定義の存在と流通規制の欠如
アルメニアの国内法には、医療機器に関する定義自体は存在しています。例えば、「医療援助および人口サービスに関する法律(Law On Medical Aid and Population Services)」では、医療機器を「器具、装置、設備、材料」として定義しています。しかし、この定義が存在するにもかかわらず、流通規制の中核となる「医薬品法」のライセンス制度から除外されている事実は、アルメニア国内の規制政策が、医薬品の即時的な安全性確保を優先し、医療機器に関しては、将来的なEAEU統一規制の導入を待つという方針を意図的に取ってきたことを強く示唆しています。
現在、多くの日本企業が国際的な規制基準(ISOやEU MDR/IVDRなど)に基づいて医療機器を製造していますが、アルメニア市場においては、国内法上の事前承認手続きや登録を必要としないため、輸入業者や販売業者が独自の品質管理に頼る形となっています。しかし、この規制の不在は、短期的には参入の容易さをもたらす一方で、長期的なブランド信頼性や、製品事故が発生した場合の法的責任(製造物責任など)を複雑化させ、増大させるリスクがあることを示唆しています。
規制構造の比較:日本法(薬機法)とアルメニア国内法(2025年末まで)
| 日本(薬機法) | アルメニア(現行国内法) | 規制対象の構造的な差異 | |
|---|---|---|---|
| 医薬品の登録/ライセンス | 必須(統合規制) | 必須(「医薬品法」に基づく) | 医薬品流通の安全性は担保 |
| 医療機器のライセンス | 原則必須(製造販売業許可等) | 原則不要 | 規制の不在(Regulatory Gap) |
| 規制監督の性質 | 製品ライフサイクル全体を通じた厳格な統合規制 | 医薬品中心。医療機器の事前承認は機能していない | 2026年以降のリスク評価の前提となる |
2025年12月31日:アルメニアが直面する「規制の崖」とEAEU統一規則の法的優位性

アルメニア市場における「規制ゼロ」の状況は、EAEUの統一規制の導入により、間もなく完全に終了します。この移行の強制力と、アルメニア特有の法的ジレンマが、この期限を「規制の崖」と呼ぶ所以です。
EAEU統一規制移行期限の法的確定
アルメニアは2015年1月1日にEAEUに加盟しました。EAEUは加盟国間で物品の自由な流通を促進するため、共通の技術規則(Technical Regulations)を調和させており、医療機器の規制はその重要な柱の一つです。EAEU執行委員会(EEC)は、統一登録制度への移行を円滑にするため、加盟国が国内規則に基づく申請とEAEU統一規則に基づく申請を並行して行うことを許可する移行期間を設けてきました。
当初、この移行期間は2022年末までとされていましたが、EAEU加盟国のシステム整備の遅れやその他の要因により、延長されました。2023年2月13日に署名された議定書により、この猶予期間は2025年12月31日をもって終了することが確定しています。EECは、この期限延長は、加盟国が2026年1月1日からのEAEU規則に基づく医療機器登録への無条件の移行を確実にするためのシステム改善を可能にするためである、と述べています。
この移行の強制力は、アルメニアの国内法自体によっても裏付けられています。アルメニアの「医薬品法」第2条第2項では、「アルメニア共和国が批准した国際条約が、本法の規定と異なる規定を定めている場合、国際条約の規定が適用される」と明記されています。アルメニアがEAEUの共通原則と規則に関する協定を批准していることから、2026年1月1日をもって、国内の簡便な慣行は法的強制力のあるEAEU統一規制によって上書きされることになります。
アルメニア特有のジレンマ:移行措置(グランドファザリング)の欠如
EAEUの規制移行措置には、通常、移行期間中に加盟国の国家規則に基づいて既に登録された医療機器の登録証明書について、その有効期限までは継続的な流通を認める「グランドファザリング」(既存権益の保護)のような仕組みが含まれることがあります。実際に、他の主要なEAEU加盟国(ロシアやカザフスタンなど)では、国内登録証明書の継続適用に関する法改正が検討されています。
しかしながら、アルメニアの状況は他の加盟国とは決定的に異なります。アルメニアは、長らく医療機器の流通にライセンスを要求せず、統一的な国家登録手続きをそもそも開発していませんでした。この特殊な事情は、アルメニアで事業を展開する日本企業にとって深刻な問題を引き起こします。他のEAEU加盟国が、移行期間中に取得した「国家登録証明書」の有効期限まで流通を継続できる可能性があるのに対し、アルメニア市場においては、継続可能な有効な国内登録証明書が存在しないためです。
この構造的な違いから、アルメニア市場に進出している企業は、他のEAEU加盟国よりも猶予期間が短く、かつ、より迅速かつ完全にEAEU統一登録への移行を完了させる必要があります。この点が、アルメニア市場における規制の崖を最も険しくしている要因であり、2026年以降のビジネス継続にはEAEU統一登録の取得が絶対的な前提となります。
EAEU統一登録への移行スケジュールとアルメニアの特殊性
| 項目 | 期限 | アルメニアの状況 | 日本企業への影響 |
| EAEU統一規則の発効 | 2016年2月12日 (決定第46号) | アルメニアへの適用も決定済 | EAEU規制は既に稼働中 |
| 国内規則に基づく申請の猶予期間 | 2025年12月31日 | 期間終了後、国内規則に基づく運用は原則不可 | 申請期限までの猶予は残りわずか |
| 国家登録証明書の継続適用 | 加盟国により異なる | アルメニアには国内登録制度がなかったため、この措置の適用外 | 統一登録への移行が絶対的かつ無条件に必要 |
2026年1月1日以降にアルメニアで医療機器の流通を継続的に行う必須要件
2026年1月1日以降、アルメニアで医療機器の流通を継続的に行うためには、ユーラシア経済委員会の評議会決定(Decision of the Council of the Eurasian Economic Commission)に基づく統一登録制度を遵守しなければなりません。中心となるのは、2016年2月12日付の決定第46号「医療機器の安全性、品質および有効性の登録と審査に関する規則」です。
厳格なEAEU登録プロセス:参照国方式とドシエ要件
EAEUの統一登録は、複雑で厳格なプロセスを要求します。まず、登録申請は、製造業者または認定代理人が選定したEAEU加盟国の一つ(「参照国」)を通じて行われます。参照国の所轄官庁が申請を受理し、その国が指定する専門機関が、医療機器の安全性、品質、有効性に関する詳細な専門的審査(Examination)を実施します。この審査を経て、登録が承認されると、統一された様式に基づいた登録証明書が発行されます。EAEUの規則に基づく登録証明書は、原則として無期限に発行され、EAEU域内での流通が可能となります。
登録に必要な文書、すなわち登録ドシエは、EAEUの一般要件に厳密に準拠して作成されなければなりません。EAEUの要求事項は、国際的な規制、特にEUの指令(EU Directives)と類似する側面を持つものの、「実際には大きく異なる」と指摘されています。例えば、EAEUでは、医療機器の臨床試験に関して、GOST R ISO 14155-2022(ヒト被験者を対象とした医療機器の臨床調査:GCP)などの最新の国際規格に準拠した文書が求められています。日本の製造業者は、既存の日本のPMD法やEU MDR対応の文書をそのまま転用できるとは考えず、EAEUの具体的な技術規則に合わせた徹底的な文書の修正と整備が必要となります。
必須となる「認定代理人」(Authorized Representative)の選定と責任
EAEU域外に拠点を置く製造業者、すなわち日本企業がEAEU市場に医療機器を上市する場合、EAEU加盟国の居住者である「認定代理人(Authorized Representative:AR)」を指定することが必須の要件となります。認定代理人は、単なる行政手続きの代行業者ではありません。製造業者から委任状を受け、EAEU域内における医療機器の品質、安全性、および有効性に関するコンプライアンスについて責任を負う法的地位を持ちます。この認定代理人は、EAEU加盟国で登録された法人または個人事業主でなければなりません。
この責任体制は、日本の薬機法における製造販売業者(MAH)制度との決定的な違いを示しています。日本の制度では、外国製造業者が登録を受けますが、製品の国内市場への法的責任は日本のMAHが負う構造です。一方、EAEUにおいては、ARが製造業者と連帯し、品質・安全性の基準遵守に対する責任を負う構造となっているため、日本企業はARとの契約締結において、この重い法的責任の範囲、役割分担、および万が一の制裁時のリスク分担を、極めて慎重に定める必要があります。適切なARの選定は、EAEU市場での法的リスクマネジメントの要となります。
EAEUのリスク分類と要求されるデータの深度
EAEUの医療機器は、その使用による潜在的なリスクの程度に基づき、ユーラシア経済委員会評議会決定第173号(2015年12月22日付)により以下の4つのクラスに分類されます。
- クラス1:潜在的リスクが低い医療機器
- クラス2a:潜在的リスクが平均的な医療機器
- クラス2b:潜在的リスクが最も高い医療機器
- クラス3:潜在的リスクが高い医療機器
この分類は、登録プロセスと要求されるドシエの深度に直結します。リスククラスが高い機器(クラス2b、クラス3)は、安全性を証明するための技術文書、特に臨床データの要求が厳格になり、登録審査に長期間を要する傾向があります。アルメニア市場で流通させていた医療機器が、EAEU基準で高リスクと分類された場合、2025年末までにEAEU統一登録を完了させるためには、緊急かつ大規模なデータ整備が必要となります。
コンプライアンス違反がもたらす法的リスクとアルメニア国内での司法判断の経路

2026年1月1日以降、EAEU統一登録なしにアルメニア市場で医療機器を流通させ続けた場合、日本企業はEAEU全体およびアルメニア国内の厳しい行政的、刑事的制裁に直面するリスクがあります。
EAEU市場における行政制裁の傾向とアルメニア国内法の適用
国際的な医療機器規制の潮流として、非遵守に対する制裁は年々高額化し、厳格化しています。例えば、EUのMDR/IVDR規則に違反した場合、数百万ユーロの高額な罰金や、市場からの即時製品回収が課されることがあります。EAEUにおいても、域内単一市場の安全性と品質を確保するため、同様に厳格な市場監視と重い制裁が適用されることが予想されます。
特に注意すべきは、アルメニア国内で既に存在する既存の罰則規定が、EAEU統一登録義務の不履行に対して適用される可能性です。現行のアルメニア「医薬品法」では、国家登録や特別許可(ライセンス)なしで医療製品を製造した場合、最高20万アルメニアドラムの罰金、または最大1年の懲役が科されることが定められています。
2026年以降、EAEU統一登録が市場流通の絶対的な法的要件となることから、国内規制当局は、EAEU統一登録を欠いた医療機器を「国家登録がない医療製品」とみなし、この既存の国内行政罰・刑事罰の規定を適用して、製品の回収命令や罰金を課す可能性があります。この国内罰則の存在は、規制の崖を越えられなかった企業に対し、EAEUレベルの市場退出リスクに加えて、アルメニア国内での刑事的・行政的な執行リスクを伴うことを示しています。
規制当局の決定に対する行政訴訟手続きと期限
EAEU統一登録の審査プロセスにおいて、アルメニア国内の所轄官庁が登録を拒否したり、既存の登録証明書を停止または抹消したりする決定を下した場合、これはアルメニア国内法上の「行政行為」として扱われます。
これらの行政行為に不服がある場合、当事者(通常は認定代理人)は、アルメニアの法体系に基づき、司法審査を求めることができます。不服申し立ての経路は二つあります。一つは、当該決定を下した規制当局に対し直接異議を申し立てる方法、もう一つは、異議申し立てを経ずに、直接アルメニア共和国行政裁判所(RA Administrative Court)に上訴する方法です。
この訴訟手続きにおいて、日本企業が特に留意すべきは、その期限の厳格さです。異議申し立ておよび行政裁判所への提訴は、行政行為の通知を受けてから2ヶ月以内に、書面で行わなければならないと定められています。この短い期限は、迅速かつ正確な法的判断と、アルメニア国内の行政訴訟対応に精通した現地チームとの連携が必須であることを示しています。規制変更が執行される2026年以降は、当局の活動が活発化し、迅速な対応の必要性が高まると予想されます。
まとめ
アルメニアの医療機器市場は、2025年12月31日をもって、「規制ゼロ」状態からEAEU統一規制という、国際的な基準に適合した厳格な規制環境へと、無条件に移行するという避けがたい「規制の崖」に直面しています。
日本の製造業者は、日本の薬機法とは異なるアルメニアの特殊な法的構造を背景に、特に他のEAEU加盟国で享受できる可能性のある既存登録の継続という恩恵が期待できない点に、最大限の注意を払う必要があります。2026年1月1日以降、EAEU統一登録を取得していなければ、アルメニア市場での製品流通は、国内法上の罰則の対象となる可能性が高まります。
期限までに市場での継続的な流通を確保するためには、以下の戦略的行動が急務です。
- 登録戦略の策定とドシエ整備の開始: EAEUの統一要求事項(決定第46号など)に基づき、製品のリスク分類に応じた技術文書(ドシエ)の整備を直ちに開始すること。EAEUの一般要件は複雑であり、登録審査には長期間を要するため、遅延は許されません。
- 認定代理人の選定と責任範囲の確定: EAEU域内での品質・安全性に対する連帯責任を負う認定代理人を慎重に選定し、契約によってその責任範囲とリスク分担を明確に定めること。
- 法的な監視体制の構築: 2026年以降のアルメニア国内での市場監視活動の増加と、国内行政罰則の適用リスクを考慮し、現地での法的コンプライアンス体制を強化すること。
当事務所では、このEAEU統一規制への移行に伴う複雑な規制動向の分析、アルメニア市場参入に向けた法的戦略の構築、EAEUの要求事項に適合するためのコンプライアンス体制の整備について、サポートをいたします。
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務

































