ブラジルにおける日本資本による現地法人買収・M&Aの法的解説

ブラジルは西半球において米国に次ぐ経済規模を誇り、国連貿易開発会議(UNCTAD)によれば、2022年には世界の外国直接投資(FDI)流入先として第5位に位置付けられるなど、国際資本にとって極めて魅力的な巨大市場です。
しかし、ブラジルは大陸法系に属しつつも、日本の会社法や商法と比べて独自の厳格な規制枠組み、特に労働法の承継原則や外国資本登録義務を有しており、M&A実行時にはこれらの重要な差異を深く理解することが不可欠です。
本記事では、ブラジルでのM&Aに問題となる、全ての取引に共通して適用される基礎法制から、日本企業が最も警戒すべき法的リスク、そしてスキームごとの特有の手続きに至るまで、具体的な法令に基づいて詳細に解説します。特に、日本の法務実務との間の相違点に着目し、実務的な注意点を明確にします。
この記事の目次
ブラジルのM&A取引に関わる基礎法制と規制
ブラジルにおけるM&A取引の実行にあたっては、対象会社の会社形態に関わらず、ブラジル民法典、会社法、外国資本規制、そして競争法上の規制を遵守する必要があります。
ブラジルの主要な会社形態と基礎法制
ブラジルにおける法人は、主にSociedade Limitada (Ltda.)とSociedade Anônima (S.A.)の二つの形態に大別され、それぞれ異なる法的規律が適用されます。M&A取引は、主に民法典(Lei nº 10.406/2002)の契約法と、ブラジル会社法(Lei nº 6.404/1976、以下「LSA」)によって規定されます。
Ltda.は日本の合同会社に相当し、設立や運営が比較的シンプルであるため、ブラジルに進出する外国企業の現地子会社やジョイントベンチャーとして最も広く採用されている形態です。Ltda.には基本的に民法典の規定が適用されますが、定款(Articles of Association)の定めによりLSAの規律(特にS.A.に適用される厳格な統治構造や意思決定要件)を部分的に採用することが認められています。
一方、S.A.は日本の株式会社に相当し、LSAの厳格なコーポレートガバナンス構造が強制的に適用されます。S.A.は、株式を公開する場合や、より大規模で複雑な所有構造を必要とする企業によって採用されます。
日本人は、日本法における「株式会社」の概念からS.A.を標準的な形態と捉えがちですが、ブラジルではLtda.の柔軟性が評価されており、買収対象がLtda.である可能性が高いことを認識しておく必要があります。対象会社がLtda.である場合、ガバナンスや意思決定は比較的柔軟に進められます。しかし、デューデリジェンス(DD)においては、対象会社の定款を徹底的に確認し、M&A実行に必須となる持分譲渡や合併に必要な議決権要件が、LSAの規定に基づき加重されていないかを事前に評価する必要があります。予期せぬ特別決議要件が設定されている場合、取引のクロージングが遅延するリスクが生じることになります。
外国直接投資(FDI)の登録義務
ブラジルへの外国資本による直接投資は、その形式(現金、物品、サービスなど)に関わらず、法令に基づきブラジル中央銀行(BCB)の電子申告登録システム(RDE-IEDモジュール)に登録することが義務付けられています。外国資本の基本法令はLei nº 4.131/1962にありますが、現在はLei nº 14.286/2021やBCBの各種決議によって規制されています。
このRDE-IEDへの登録は、BCBによる投資の事前認可を意味するものではなく、申告的な性質にとどまります。しかし、外国投資家は、投資を受けるブラジル企業とともに、現地に代表者を任命し、登録責任を負う必要があります。この登録によって付与されるRDE番号は極めて重要であり、将来、ブラジル国内で発生した利益、配当、利子、あるいは投資資本の回収金を国外へ送金する際、認可された銀行を通じて国際送金を行うための必須要件となります。
日本においては、対外直接投資に関する規制は比較的緩やかであり、事後の報告義務が中心であるため、このブラジルのRDE-IED登録義務は大きな相違点となります。この手続きを怠った場合、投資収益の送金や資本の引き揚げが実質的に不可能になるという点で、買収後のオペレーションと資本戦略に重大な障害をもたらすため、M&A取引のクロージング後のコンプライアンスとして、最優先で確実な履行が求められます。
競争法上の事前届出
ブラジル国内で実施されるM&A取引は、ブラジル競争法(Lei nº 12.529/2011)に基づき、経済擁護行政審議会(CADE)による事前審査の対象となります。集中行為が一定の売上高基準を満たす場合、CADEへの届出が義務付けられます。
ブラジルのM&A市場は活発であり、CADEへの届出件数は2024年に過去最高の712件を記録しました。この件数の多さは、多くの取引が届出基準を満たし、独禁法審査がM&Aプロセスにおいて避けて通れない必須手続きであることを示しています。
CADEは世界で最も効率的な独禁法当局の一つとして評価されており、合併審査にかかる平均期間は全体で22日、簡易手続きに至ってはわずか15日で完了しています。この迅速な審査プロセスは、独禁法審査期間を原因とするディール・リスク(クロージング遅延リスク)を低減させる要因となります。しかし、審査期間が短いからといって手続き自体を軽視できるわけではありません。買収戦略を立案する際には、取引規模に関わらず、情報提出や当局対応のためのコストと時間をゼロにはできず、クロージング前にCADEの認可期間を確実に組み込む必要があります。
ブラジルにおける会社形態別の買収手続と支配権変更の要件

Sociedade Anônima (S.A.)
S.A.の株式取得、特に公開会社(CVMに登録された会社)の支配権取得や非上場化を伴う場合、ブラジル証券取引委員会(CVM)の規制が適用されます。
ブラジルにおいては、特定の事由が発生した場合に強制的な公開買付(Oferta Pública de Aquisição, OPA)の義務が発生します。主なトリガーとなるのは、公開会社の支配権の直接的または間接的な取得、支配株主による株式の追加取得、および証券取引所からの上場廃止やCVM登録の取り消しによる非公開会社への移行などです。
また、B3(ブラジル証券取引所)のNovo MercadoまたはNível 2セグメントに上場している対象会社に対する公開買付(支配権取得を目的とするか否かを問わない)の場合、対象会社の取締役会による意見表明が義務付けられています。これは、株主が十分な情報に基づいて買付の受諾を判断できるよう、市場への情報開示を徹底させるための規制です。
少数株主の締め出し(Squeeze-out)
ブラジル会社法では、少数株主の締め出し(スクイーズアウト)は、非上場化を目的とした公開買付が成功し、その結果として発行済み株式の5%未満が市場に残った場合に限って認められています。この場合、買付者は公開買付で支払われたのと同額の対価を支払って残りの株式を償還することが許可されます。
これは、日本の会社法における特別支配株主による株式等売渡請求制度が、より広範な支配株主の意思に基づき認められるのに対し、ブラジルにおいては、残余株式の比率(5%未満)が厳格な要件となっており、スクイーズアウトの手続きがより制約的であると言えます。
Sociedade Limitada (Ltda.)
Ltda.の持分譲渡は、S.A.の株式譲渡と比較して手続きはシンプルですが、商業登記上の手続きが不可欠です。
持分譲渡を実施する際には、譲渡内容が反映された定款の変更を文書化し、その文書を管轄の商業登記委員会(Board of Trade)に登録しなければなりません。ブラジルの商業登記委員会は州レベルで運営されていますが、企業登録・統合省(DREI)が設定する主要な規則と指令に従って、全国商業会社登録システム(SINREM)を構成しています。この登録によって初めて、持分の所有者変更が第三者に対して対抗力を持ちます。
ブラジルの事業譲渡(Trespasse)に伴う承継責任
M&Aスキームとして企業全体ではなく、特定の事業部門や資産群を切り出す事業譲渡(ブラジル法におけるTrespasse、企業財産の譲渡)を選択する場合、買収者が負うことになる債務承継の原則は、日本の商法や会社法の規律と大きく異なり、日本企業にとって最大の潜在的リスク源となります。
Trespasse(企業財産の譲渡)の概念と債務承継
Trespasseとは、「事業活動の遂行を目的とする有形および無形資産の集合体(企業財産)」の譲渡を指します。ブラジル法におけるTrespasseの特筆すべき規律は、買収者が譲渡対象事業に関連のない負債までも含む、譲渡元の債務に対して責任を負う可能性があることです。特に、税務、従業員、および商業契約に基づく負債は、当該取引がTrespasseと見なされる場合、買収者に帰属する可能性があります。
労働債務の厳格な自動承継(Sucessão Trabalhista)
ブラジルの労働法制においては、企業の支配権の取得、またはその資産の重要な部分(事業単位を構成する資産)の移転は、労働承継(Sucessão Trabalhista)を構成するという概念が確立されています。
この労働承継の原則が認定された場合、新たな所有者(買収者)は、買収以前の期間に関連するものを含め、取得した事業単位または会社に関する一切の労働上の権利および債務について責任を負います。
これは、日本の商法における事業譲渡では、労働契約の承継は原則として個別の合意が必要とされるのとは対照的です。ブラジルでは、「事業の継続性」が認められた時点で、労働債務の包括的かつ自動的な承継責任が発生するため、契約上の特約をもってこの責任を回避することは極めて困難です。そのため、M&A実行前のDDにおいては、潜在的な労働債務を特定し、そのリスクを価格交渉や契約上の補償条項に反映させることが、最も重要となります。
上級労働裁判所(TST)による先例
この労働債務承継のリスクは、ブラジル上級労働裁判所(Tribunal Superior do Trabalho, TST)が確立した拘束力ある先例によって、さらに深刻化しています。
TSTは、2021年3月1日の判決(Case No. RR 247-93.2021.5.09.0672, TST)において、「労働債務の強制執行は、主債務者(主要な雇用主)による不履行が確認された時点で、主たる雇用主またはその株主に対する回収の試みを尽くす必要なく、直ちに二次的債務者(承継企業)に向け直すことができる」という判例を、ブラジル全土の労働裁判所に適用される拘束力ある先例として確立しました。
この決定は、買収者に対するリスクを劇的に高めます。従来は、二次的債務者(買収者)への執行前に、主債務者(譲渡元)に対してまず執行を尽くす必要がありましたが、この先例により、主債務者が支払い能力を失ったと判断された瞬間、買収者に対して執行が即座に行われる道が開かれました。これにより、買収者は譲渡元の破綻リスクや債務隠蔽リスクを直接的に負うことになり、Trespasseを伴うM&Aにおいては、契約における表明保証、補償条項、およびエスクロー(第三者預託)を通じたリスク防御策の検討が、従来以上に重要となります。
Trespasseに伴う税務債務およびその他の債務承継
税務法制においてもTrespasseには連帯責任の規律が存在します。税法上、直接的な資産売却または組織再編(ドロップダウン)によるTrespasseが実施された場合、譲渡元が当該事業の営業活動を停止する場合に限り、買収者は税務債務について連帯責任(Joint and several liability)を負います。
ただし、譲渡元が、事業譲渡から6ヶ月以内に同一または新たな事業を継続して営む場合、買収者の連帯責任は発生しません。したがって、買収側としては、譲渡元が意図的に清算を早めたり、全ての事業活動を停止したりしないよう、契約上または実務上の手配を行うことが、税務リスク管理の観点から重要となります。
ブラジルの特定産業分野買収時に適用される特別規制
買収対象の法人が特定の産業分野で事業を行っている場合、外国投資家に対して追加の制限や特別認可要件が課されることがあります。これらの規制は、ブラジル憲法および個別法令に基づいています。
外国投資に対する特別認可が必要な分野
特定の活動については、外国投資が制限され、関係する行政機関の特別認可がM&A取引の前提条件となります。
主な制限分野には、鉱物資源の探査および採掘(特に国境地帯)、電気通信および放送事業、ヘルスケア産業が含まれます。金融セクターにおいても、外国金融機関のブラジル支店開設や金融セクターへの投資にはBCB(中央銀行)の監督下でライセンスプロセスが必要ですが、近年、手続の簡素化が進められ、外国投資家と国内投資家が平等に扱われるようになっています。
外国資本が禁止されている独占的・戦略的セクター
ブラジル憲法第21条第XXIII項および関連法令により、外国資本による投資が完全に禁止されている分野も存在します。これには、核エネルギーに関連するサービスおよび施設、郵便および電信サービス、航空宇宙産業などが含まれます。これらの分野では、国家の独占または安全保障上の理由から、日本資本を含む外国資本による買収は原則として実行不可能です。
ブラジルにおける買収後の届出とコンプライアンス
支配権の変更が完了した後、ブラジルの現地法人は、複数の行政機関に対して速やかに変更を届け出、継続的なコンプライアンス義務を履行する必要があります。
商業登記委員会(Boards of Trade)およびDREIへの届出
Ltda.の持分譲渡やS.A.の組織規程の変更、あるいは会社の基本情報(商号、所在地など)の修正は、管轄の州レベル商業登記委員会に登録する必要があります。これらの委員会は、DREI(企業登録・統合省)が統括する国家商業会社登録システム(SINREM)の一部として機能しています。
日本の法務局による登記制度と運営形態は異なりますが、ブラジルの商業登記制度の目的は情報の公開にあり、会社の定款や株主総会議事録などの基本情報はオンラインを通じて公的にアクセス可能となっています。買収側は、DDにおいて公開情報を容易に取得できるメリットがある一方、買収後の自社の組織変更情報も公的にアクセス可能であるという前提で、情報管理戦略を構築する必要があります。
公的文書の公表義務のデジタル化
ブラジルでは、公開会社および非公開会社が法律で義務付けられている公的文書(財務諸表や通知など)の公表方法に関して、2022年1月1日以降、大きな変更がありました。
企業は、公的文書を官報に掲載する必要がなくなり、代わりに、主要な新聞に要約版を掲載するとともに、選定した新聞社のウェブサイト上にデジタル認証付きの完全版を同時に公開することが義務付けられました。このデジタル認証は、ブラジルの公的認証基盤(ICP-Brasil)によって認定された認証機関によって発行されなければなりません。
CVM(ブラジル証券取引委員会)の意見書(Opinion No. 39)では、公開会社に対して、監査済みの完全な財務諸表に基づいて要約版を作成し、事業概要や重要な会計方針の変更、注記を含めるよう指導しています。この新しい公表要件は、日本の公認会計士制度と類似しつつも、ブラジル独自のデジタル認証制度と連携したコンプライアンス上の義務として、注意深く履行する必要があります。
知的財産権(IPR)の移転登録
M&A取引において、商標権や特許権などの知的財産権(IPR)の移転が行われる場合、その権利の効力を第三者に対抗するためには、ブラジル特許庁(BRPTO)に対して所有権移転の登録手続きを行う必要があります。BRPTOは、所有権移転や名称・所在地変更の要請に関する具体的な手続き、必要書類、公証、翻訳などの規定を、2024年9月13日付のOrdinance #20などの最新の規則で定めています。
まとめ
ブラジルにおける日本資本によるM&Aの際には、Ltda.とS.A.という会社形態ごとの法的特性の理解、そして全ての外国投資に必須とされるBCBのRDE-IED登録義務の確実な履行などが重要です。RDE-IED登録は、将来的な利益送還を保証するための生命線として、戦略的な重要性を持ちます。
特に、日本企業が最も注意を払うべきは、事業譲渡(Trespasse)における労働債務の厳格な自動承継原則です。上級労働裁判所(TST)による新たな拘束力ある先例は、買収者が譲渡元の過去の労働債務に対して迅速かつ直接的な執行を受けるリスクを強化しており、高度なデューデリジェンスと契約上の防御策の構築が不可欠です。さらに、取引の規模に応じたCADE審査への対応や、特定セクターに存在する厳格な許認可要件の遵守も、クロージング要件として重要となります。
これらの多岐にわたる法規制、特に日本法との相違点を正確に理解し、潜在的なリスクを最小限に抑えるためには、ブラジル法務に精通した専門的な知見が不可欠です。
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務