アルメニアの厳格な「実質的支配者(UBO)」電子届出義務

アルメニア共和国(以下、アルメニア)は、近年、国際的な企業の透明性を高めるために、極めて厳格な法規制を導入しています。特に、国際的なマネーロンダリング対策(AML/CTF)および採掘産業透明性イニシアティブ(EITI)へのコミットメントを背景に、実質的支配者(UBO:Ultimate Beneficial Owner)の開示制度が大幅に強化されました。
日本の法制度では、法人設立時の定款認証手続きにおいて公証役場でUBOを申告しますが、登記後の継続的な情報更新義務は限定的であり、法務局の実質的支配者情報リストの交付は任意の申出に基づいて行われます 2。これに対し、アルメニアは、国内のすべての法人がその最終的な支配者である「自然人」を特定し、法務省の国家登記簿(中央登録簿)に電子的に届け出ることを法律で強制しています。
最も注意すべきは、その運用速度と期限の厳しさです。アルメニアでは会社設立が1〜3営業日で完了するほど迅速化しているにもかかわらず、新規設立された法人は、設立登記の日からわずか40日以内にUBO情報を専用の電子ポータルを通じて提出しなければなりません。この迅速な設立プロセスと厳格な40日ルールとの間の「スピードのミスマッチ」は、複雑な資本構成を持つ日本企業にとって深刻なコンプライアンス・リスクとなり得ます。UBO特定の調査には数週間を要することが珍しくなく、日本本社が把握しないうちに現地法人が設立されると、あっという間に届出期限を過ぎてしまい、設立直後に法令違反の状態に陥る危険性が高まっています。
本記事では、このアルメニアのUBO開示義務の法的根拠、日本法との決定的な差異、UBO特定の詳細な基準、そして違反時の罰則と、日本企業が取るべき具体的なコンプライアンス戦略について詳細に解説します。
この記事の目次
アルメニアUBO開示制度の法的基礎と日本法との構造的差異
厳格な透明性義務の背景:「法人の国家登録に関する法律」の役割
アルメニアが採用した実質的支配者(UBO:Ultimate Beneficial Owner)の開示制度は、金融活動作業部会(FATF)の勧告に従い、法人格が資金洗浄やテロ資金供与の目的で悪用されることを防ぐ目的を有しています。特に、アルメニアが採掘産業透明性イニシアティブ(EITI)に積極的に取り組んでいることから、他の産業よりも高い透明性基準が設けられており、制度全体が非常に厳格なものとなっています。
このUBO届出義務の法的根拠は、「法人の国家登録に関する法律(Law on State Registration of Legal Entities)」に定められています。この法律に基づき、すべての法人、特に有限責任会社(LLC)を含む法人は、設立登記後、または資本構成や株主構成に変更があった際に、実質的支配者に関する宣言書(UBO declaration)を法務省の国家登記簿を管轄する機関(State Register)に提出することが義務付けられています。
日本のUBO制度との構造的な差異
日本のUBO関連制度は、アルメニアの制度と比較して、その強制力と継続性において根本的に異なります。日本では、会社設立時に公証役場に対して実質的支配者となるべき者を申告する仕組みが確立されています。さらに、法務局でも実質的支配者情報リストの交付制度が運用されていますが、これは関係者や金融機関からの任意の申出に基づいて実質的支配者情報リストの写しを発行するものです。仮にUBO情報に変更が生じたとしても、改めて申出をしない限り、変更後の実質的支配者情報リストの保管や写しの交付を求めるかどうかは任意とされています。
これに対し、アルメニア法は、設立時のみならず、その後UBO情報や支配構造に変更があった場合も、変更日から40日以内に電子的に更新することを継続的な法的義務として強制しています。日本の制度が情報を静的に保全する役割が強いのに対し、アルメニアの制度はUBO情報を法人ガバナンスの動的な構成要素として捉えており、その更新の懈怠は深刻な法令違反となります。中央銀行や現地金融機関は、AML/KYC(顧客確認)の一環として、この中央登録簿の最新情報を参照しているため、企業側にはリアルタイムに近い正確な情報提供が求められます。
アルメニア「実質的支配者(UBO)」の定義と特定における課題
UBO特定基準の詳細:20%ルールとリスクベース閾値
アルメニアにおける実質的支配者(UBO)の定義は包括的であり、特定された「自然人」の情報を開示することが求められます。一般的な基準として、UBOは、直接的または間接的に当該法人の20%以上の株式または議決権を保有する自然人と定義されています。
しかし、アルメニアは汚職リスクが高いとされる分野に対し、リスクベース・アプローチを採用しており、採掘産業(Extractive Sector)に従事する企業については、開示の閾値が10%に引き下げられています。また、採掘産業において政治的要人(PEP)やその近親者が何らかの持分を持つ場合、保有比率に関わらずUBOとして報告義務が生じます。持分基準のほかにも、取締役会の任命権の行使や、その他の手段を通じて、法人の決定を実質的に支配している個人もUBOとして特定されなければなりません。
さらに、上記の持分や支配権の基準を満たす自然人が一人も特定できない稀なケースにおいては、当該法人のゼネラルマネージャー(代表者)がUBOと見なされ、その情報が報告されます。これにより、必ず誰か(自然人)が責任の所在として登録されることになります。
多層持株会社構造における「遡及」義務
多国籍企業、特に日本の親会社がシンガポールやオランダなどの複数の持株会社を経由してアルメニア子会社を設立するスキームでは、UBOを特定する作業が極めて複雑になります。UBO開示は、支配構造の連鎖を最終的な「自然人」まで遡ることが義務付けられています。複数の国や法域の中間法人を経由して持分が間接的に保有されている場合、法務部門は、その複雑な資本の連鎖図を作成し、各中間法人における持分比率を掛け合わせることで、最終的な個人の支配率を正確に算出し、それを立証する根拠文書を整備する必要があります。
アルメニアの規定は、支配構造の複雑さや国境をまたぐ事態を、届出遅延の言い訳として認めません。特定作業に数週間を要することは実務上よくありますが、もし40日間の期限内に最終的な個人が特定されなかった場合、現地法人のゼネラルマネージャー(代表者)が代替的なUBOとして登録されることになります。結果として、現地責任者は、本来のUBOではないにもかかわらず、届出情報の正確性や適時性に関する行政的・潜在的な刑事責任のリスクを負う可能性が生じます。これは、現地責任者に対する予期せぬ個人リスクの転嫁を意味し、本社法務として厳重に管理すべき事態です。
アルメニア40日ルールの厳格性:コンプライアンス上の切迫性と罰則

設立スピードと届出期限のギャップが生む切迫性
アルメニアはデジタル化が進んでおり、法人登記手続きは完全に電子化されており、通常1〜3営業日という驚異的な速さで完了します。この迅速な登記手続きは、事業開始を急ぐ企業にとってはメリットである一方、コンプライアンス上の重大な問題を引き起こします。
法人登記が完了した瞬間から、UBO電子届出のための40日間のカウントダウンが開始されます。法務部門がUBO特定のためのデューデリジェンスを完了する前に、現地担当者がスピードを優先して法人登記を済ませてしまうという「オペレーショナル・リスク」は、複雑な資本構造を持つ日本企業にとって、設立後わずか1ヶ月強で法令違反を招く最も一般的な原因となります。この期限の厳守は、法令違反を防ぐだけでなく、事業継続性にも直結します。なぜなら、UBO登録が遅延したり、不正確であったりすると、銀行がAML/KYCの観点から口座取引を停止または中断する事態を招き、現地での事業運営が麻痺する可能性があるためです。
違反に対する行政責任と罰則
UBO情報の届出義務を怠った場合、アルメニア法に基づき行政責任を問われます。未提出、遅延、または不完全・不正確な情報提供は、法令違反と見なされます。不履行の場合、初期段階では正式な警告が発せられ、その後、違反の性質に応じて最大で100,000 AMD(アルメニア・ドラム)の罰金が科される可能性があります。この罰則は、適時かつ正確な報告を確保することに重点を置いた執行体制の下で運用されています。
さらに重大な問題として、単なる遅延や過失ではなく、UBO情報が意図的に虚偽であったり、情報が組織的に隠蔽されたりした場合は、行政罰の範囲を超えて、刑事責任に発展する可能性があります。この刑事責任は、届出を承認した会社の役員や創業者個人に及ぶリスクがあるため、UBO申告の正確性を担保するための厳格な内部統制(ガバナンス・コントロール)の構築が必須となります。
司法執行の傾向と裁判例の示唆
UBO開示義務に対する行政庁による執行は厳格に行われており、その適法性が司法の場で争われる事例も確認されています。これは、企業がUBO申告を軽視できないことを裏付けています。
例えば、アルメニア共和国では、行政庁が下した行政罰決定の適法性が争われました。アルメニア共和国行政控訴裁判所は、事件番号VD/3263/05/22において、行政庁が下した控訴を2024年12月19日付で棄却し、下級審による行政罰決定無効化の判断を支持しました。この判例は、行政庁の執行が厳格である一方で、企業が正当な主張と適切な根拠を示すことができれば、行政処分が司法の監視下で取り消される可能性も示唆しています。しかし、重要な点は、執行当局によるUBO不遵守への対応が活発化しており、企業は訴訟リスクも含めたコンプライアンスコストを考慮する必要があるということです。
アルメニア共和国の行政控訴裁判所の判決(Case No. VD/3263/05/22関連)に関する情報源については、以下のリンクから確認できます。
https://hspartners.am/en/laws/5ec072b7-df4c-4968-898e-cc4d0fe87541
アルメニアにおける電子届出の実務とコンプライアンス戦略
電子ポータルを通じた手続きと中央登録簿の仕組み
アルメニアのUBO届出は、完全に電子化されています。企業は、政府のナショナル・サービス・ゲートウェイ(National Services Gateway)内の専用ポータル(例:english.hartak.am)を通じて、UBO情報の宣言書を提出することが義務付けられています。このポータルでは、電子フォームに必要事項を記入し、持分や支配権を立証する根拠書類をアップロードした後、電子的に署名して提出します。
アルメニアのUBO登録簿は、原則として公開されており、特定の個人情報(パスポートデータ、住所、連絡手段など)を除き、一般にアクセス可能です。これにより、当局や金融機関が容易にUBO情報を検証できるため、企業側は常に情報の正確性を維持する強いインセンティブが働きます。
参考:ナショナル・サービス・ゲートウェイ(National Services Gateway)
https://english.hartak.am/
日本企業のためのコンプライアンス戦略
アルメニアへの進出やM&Aを検討する日本企業は、この厳格な40日ルールに対応するため、従来の日本国内の法務・登記実務とは異なる、プロアクティブなアプローチを採用する必要があります。つまり、問題が起こるのを待つのではなく、未来を予測して主体的に先手を打って行動することが重要です。
- UBO特定の最優先化:UBOの特定作業を、法人設立申請を承認させるためのタスクではなく、「設立後40日間のコンプライアンス」を確保するための最優先タスクとして再定義する必要があります。現地法人設立申請を行う前に、本社法務部が最終的なUBOマッピングと根拠書類の収集を100%完了させておくべきです。
- クロスボーダー・ガバナンスの確立:本社法務部門、現地管理部門、外部顧問(弁護士・コンサルタント)が連携し、UBO情報を特定した日、根拠書類、および電子申告を完了した日付を詳細に記録する、厳格な内部レビュー体制(マルチチェック)を構築しなければなりません 9。
- 継続的な監視と更新体制の整備:M&A、増資、持分譲渡、ストックオプション行使など、会社の資本構成に変更が生じるコーポレート・アクションの際には、その変更日を起点として新たな40日間のカウントダウンが始まることを社内に徹底する必要があります 9。変更が発生した際は、遅滞なくUBOレビューを行い、更新手続きを実行するためのトリガーをコーポレート・カレンダーに組み込むことが求められます。
- 銀行KYCとの整合性確保:UBO届出の更新を行った際は、直ちに取引銀行のKYCファイルも更新し、中央登録簿の情報との不整合が発生しないように努める必要があります。不整合は事業活動停止リスクに直結します 11。
まとめ
アルメニア共和国のUBO電子届出義務は、日本企業が慣れ親しんだ日本の法人登記制度と比較して、その継続的かつ強制的な性質と、40日という厳格な期限において決定的な違いがあります。アルメニアの迅速なデジタル法人登記システム(1〜3日)は、複雑な資本構成を持つ日本企業の本社法務部にとって、UBO特定作業にかけられる時間を劇的に圧縮し、意図せず設立直後の法令違反状態を引き起こす特有のコンプライアンス上のリスクを生んでいます。
このリスクを回避し、現地での事業継続性を確保するためには、UBOの特定を「設立後」の作業と見なす従来の慣行を改め、「設立申請前」にクロスボーダーでの最終的なUBOマッピングを完了させる、戦略的かつプロアクティブなアプローチが必須です。期限の不遵守や虚偽申告は、行政罰だけでなく、事業継続に不可欠な銀行取引の停止や、会社の役員個人への責任追及に発展する可能性があります。
モノリス法律事務所では、アルメニアの厳格なUBO開示要件と日本企業のグローバルな資本構造を調和させ、法令遵守と円滑な事業展開を両立させるための戦略策定と実行についてサポートいたします。
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務

































