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法律記事MONOLITH LAW MAGAZINE

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オーストリアの労働法を弁護士が解説

オーストリアの労働法を弁護士が解説

オーストリア(正式名称、オーストリア共和国)の労働市場は、法典上の規定だけでなく、歴史的に形成された社会的な慣習や、強力な労働組合の交渉力によって大きく規定されているという点で、日本とは異なる特異な側面を持っています。特に、雇用契約が書面だけでなく口頭でも有効であるという原則と、それに付随して交付が義務付けられる「ディーンストツェッテル(Dienstzettel)」と呼ばれる書面、そして法律上の定めではないにもかかわらず広く普及している13ヶ月目・14ヶ月目の給与制度は、進出を検討する日本企業が直面する主要な論点と言えるでしょう。

本稿では、これらの特徴を日本の法制度との対比を通じて深く掘り下げ、オーストリアにおける雇用慣行の本質を解説します。適切な理解は、円滑な事業運営と従業員との良好な関係を築くための第一歩となります。

オーストリアの「ディーンストツェッテル(Dienstzettel)」制度

「ディーンストツェッテル」の交付義務

オーストリアの労働法は、雇用契約の成立に際して、原則として書面による厳格な形式要件を課していません。したがって、雇用主と従業員が口頭で合意すれば、法的に有効な雇用関係が成立します。

そして、口頭で雇用契約が締結された場合、雇用主は労働契約法調整法(Arbeitsvertragsrechts-Anpassungsgesetz, AVRAG)第2条に基づいて、従業員に対し「ディーンストツェッテル(Dienstzettel)」(雇用条件要約書)と呼ばれる書面を交付する法的義務を負います。この書面は、口頭で合意した雇用主・従業員の氏名住所、雇用開始日、給与、労働時間、休暇など、重要な契約条件を要約して明記するものです。 

近年、このディーンストツェッテルに記載すべき事項は拡大されています。2024年3月28日以降に締結される雇用契約には、EU指令の国内法化に伴い、解雇の手続き、勤務地の詳細、社会保険機関の名称、職務内容の簡潔な記述、試用期間の条件、雇用主が提供する可能性のある研修に関する情報なども追加で記載することが求められるようになりました。 

記載内容の合意を証明しないこと

この書面は、雇用契約を法的に成立させるためのものではなく、あくまでも既に成立した口頭契約の内容を証明するための「宣言的」な書面であるという最高裁判所(OGH)の長年の判例法理があります。最高裁はディーンストツェッテルを「雇用主の法律状態に関する知的な宣言」と位置づけており、書面に記載された内容が「事実」として口頭で合意された内容を反映していると解釈されます。 

この法的性質から、ディーンストツェッテルに署名がなされたとしても、その署名は「書面を受け取った」ことを証明するに過ぎず、記載された内容に両者が合意したことの証明にはなりません。したがって、紛争が発生した際には、従業員が「書面の内容は口頭合意と異なる」と主張する可能性があり、その証明力は限定的です。これは、日本の労働条件通知書に、労使双方の合意形成を明確化する役割が期待されていることとは一線を画す点と言えるでしょう。この証明力の限界は、日本企業がオーストリアで事業を行う上で、口頭契約に依拠することの潜在的な危険性を示唆しています。このリスクを回避するためには、ディーンストツェッテルの交付義務を果たすだけでなく、最初から労使双方の署名がある書面による雇用契約(Dienstvertrag)を締結することが、紛争予防の観点から最も賢明な策となります。 

「ディーンストツェッテル」不交付時のリスクと行政罰

オーストリアの労働法は、口頭契約を認める柔軟性を持つ一方で、従業員の権利保護を確保するための厳格なルールも併せ持っています。ディーンストツェッテルを交付しない場合、雇用主には行政罰が科されます。罰金額は100ユーロから436ユーロで、従業員が5人以上に関わる場合や3年以内の再犯では500ユーロから2,000ユーロに増額されます。これらの罰則は、ディーンストツェッテルが単なる形式的な書面ではなく、雇用主が遵守すべき重要な法的義務であることを示しています。進出企業は、たとえ口頭で合意が成立したとしても、遅滞なくこの書面を交付する義務を果たす必要があります。 

オーストリアの慣習である「13ヶ月・14ヶ月目の給与」制度

オーストリアの慣習である「13ヶ月・14ヶ月目の給与」制度

法的義務ではない「特別給与(Sonderzahlungen)」

オーストリアの労働慣行として、1年に12ヶ月の月給に加え、13ヶ月目と14ヶ月目にあたる特別給与が支給されるという慣習があります。これらはそれぞれ休暇手当(Urlaubsgeld)クリスマスボーナス(Weihnachtsremuneration)と呼ばれており、特別給与(Sonderzahlungen)の一種として位置付けられます。 

これらの法的根拠は、主に各業界の労働協約(Kollektivvertrag)個別雇用契約にあります。しかし、オーストリアでは労働組合が強い交渉力を持ち、多くの産業で労働協約が締結され、労働者の約98%がその適用を受けるため、この制度は事実上の社会慣習として定着しています。 

この広範な普及は、オーストリアの労働法が単なる成文法に留まらず、社会的な交渉と合意によって形成されているという労使関係の本質的な側面を物語っています。オーストリアへの進出を検討する日本企業は、自社の事業がどの労働協約の適用を受けるかを正確に把握し、その内容に準拠した賃金制度を構築することが不可欠です。労働協約の内容を無視した雇用条件は、後に法的紛争や従業員との関係悪化につながる重大なリスクとなり得ます。

従業員に有利な「ヤーレスゼヒステル(Jahressechstel)」

特別給与制度が社会的に定着している大きな要因の一つに、その税制上の優遇措置があります。特別給与は、通常の月給とは異なる優遇された税率で課税されます。 

この優遇税率が適用されるのは「ヤーレスゼヒステル」(Jahressechstel)と呼ばれる枠内です。ヤーレスゼヒステルは、その名の通り「年間6分の1」を意味し、平均的な2ヶ月分の月給に相当します。特別給与がこの枠内に収まる場合、通常の累進課税とは異なる優遇税率が適用されます。具体的には、最初の620ユーロまでが非課税、次の24,380ユーロまでが6%の固定税率で課税されます。この優遇税制により、従業員の手取り額が増加し、この制度は従業員にとって明確なメリットとなります。 

このように、特別給与に適用される優遇税制は、従業員の可処分所得を増加させるという明確な利点があります。雇用主にとっては、通常の月給を上げるよりも税負担が少ない形で従業員の報酬を増やす手段となります。この制度は、従業員の購買力を特定の時期(休暇前とクリスマス)に高める効果も持ち、内需を刺激する経済政策の一環としても機能していると言えるでしょう。

労働契約終了時の「特別給与」の扱い

雇用契約が期間の途中で終了した場合、特別給与は勤務期間に応じて日割り計算(aliquot)で支給されるのが通例です。例えば、年の途中で退職する場合、その年における勤務期間に相当する特別給与が、未払いであれば支払われることになります。 

一方で、既に満額の特別給与を受け取った後に、契約期間の途中で自己都合退職や懲戒解雇など、特定の事由で契約が終了した場合、労働協約や雇用契約の規定により、雇用主が超過分を返還請求できるケースもあります。このため、従業員が予期せぬ退職をする可能性がある場合、雇用契約書や労働協約の内容を事前に確認しておくことが重要です。 

オーストリアでの労働慣行を規定するその他の重要事項

最低賃金制度と労働協約の役割

日本の地域別最低賃金制度とは異なり、オーストリアには全国一律の法定最低賃金は存在しません。その代わりに、各産業の労働協約が、それぞれの分野における最低賃金を定めています。 

労働時間と休暇の規定

オーストリアの法定労働時間は、原則として1日8時間、週40時間です。これは日本の法定労働時間とほぼ同様と言えます。しかし、労使協定や労働協約による柔軟な労働時間制度が認められており、週平均48時間を超えない範囲であれば、1日12時間、週60時間までの勤務が許容されます。また、法定有給休暇は、年間5週間(25労働日)と、日本と比較して手厚い保護が与えられています。

解雇に関する規定

オーストリアでは、原則として通常解雇(Kündigung)に理由を付す必要はありません。ただし、法定の予告期間を遵守する必要があります。 

一方で、従業員が5人以上いる事業所では「一般解雇保護」が適用されます。従業員が解雇に異議を申し立てた場合、雇用主は解雇が従業員の能力・行動または経営上の理由による正当なものであることを証明する必要が生じます。特定の従業員(妊娠中の女性、産後の女性、育児休業中の親、労働評議会メンバーなど)は「特別解雇保護」が適用され、特定の理由がなければ解雇はできず、多くの場合、関連当局の事前の同意が必要となります。 

まとめ

オーストリアでの事業展開を成功させるためには、法制度の表面的な理解に留まらず、その根底にある法文化や社会慣習への深い洞察が不可欠です。口頭契約の有効性や特別給与制度といった一見奇妙に映る慣行は、従業員の権利保護と労使関係の安定を重視するオーストリア社会の価値観を反映したものです。これらの違いを正確に把握し、適切な雇用戦略を構築することが、円滑なビジネス運営への第一歩となるでしょう。

弁護士 河瀬 季

モノリス法律事務所 代表弁護士。元ITエンジニア。IT企業経営の経験を経て、東証プライム上場企業からシードステージのベンチャーまで、100社以上の顧問弁護士、監査役等を務め、IT・ベンチャー・インターネット・YouTube法務などを中心に手がける。

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