デンマークの資金決済法制とFinTechビジネス参入の法的要件

デンマーク王国(以下、デンマーク)は、欧州連合(EU)の改定決済サービス指令(PSD2)を中核とする、高度にデジタル化された堅牢な資金決済法制を有しており、これは北欧地域におけるFinTechビジネスの重要なハブとなっています。日本企業の経営者や法務部員がこの市場への展開を検討する際、成功の鍵となるのは、EU共通の枠組みと、そのデンマークにおける厳格な適用方法を正確に理解することにあります。
デンマークの資金決済法制は、市場における競争とイノベーションを積極的に促進する一方で、消費者保護の水準を極めて高く設定している点に特徴があります。特に日本の法制との比較において、事業展開の戦略的メリットと、内在するオペレーショナルリスクの両面で、重要な差異が存在します。
本件に関する主要な要点としては、ガバナンスの柔軟性、厳格な消費者保護、規制当局の積極的な関与、そしてイノベーション支援の4点が挙げられます。ガバナンスの柔軟性として、電子マネー機関(EMI)ライセンス取得に際し、デンマークは特別な保険加入の義務なく取締役の居住要件を課さず、国際的な経営陣による管理を可能にしています。また、厳格な消費者保護の側面から、不正な決済取引が発生した場合、支払者の損失負担上限はわずか50ユーロに制限され、PSPには不正立証責任と強固な顧客認証(SCA)の義務が重く課せられます。さらに、規制当局の積極的な関与が見られ、デンマーク競争・消費者庁(DCCA)は、決済機関への非差別的アクセス提供義務を積極的に執行することで、新規参入者の公正な市場アクセスを確保しています。最後に、イノベーション支援策として、規制サンドボックス「FT Lab」が、ブロックチェーンなどの新しいビジネスモデルについて、Finanstilsynetから法的適合性に関する迅速かつ公式な見解を得るためのプラットフォームを提供しています。
本稿は、これらの要素を踏まえ、日本の経営者や法務部員を主要な読者とし、具体的な法令根拠に基づき専門的な洞察を提供します。
この記事の目次
EU指令に基づくデンマーク資金決済法制の基礎構造
欧州統一市場におけるPSD2の位置づけと国内法への統合
デンマークはEU加盟国としての義務に基づき、PSD2(Directive 2015/2366)を全面的に国内法制に統合しています。この統合は、「デンマーク決済サービス・電子マネー法」(Lov om betalinger)を通じて実現されており、同法の主要な目的は、決済サービス市場におけるセキュリティの強化、競争の促進、そして技術革新の支援にあります。
同法制は、PSD2の原則を踏まえ、顧客データの所有権を顧客自身に帰属させるというEU一般データ保護規則(GDPR)の理念の上に成り立っています。これにより、銀行は、口座保有者の明確な同意を得ることを条件に、第三者決済サービスプロバイダー(TPP)に対して口座情報へのアクセスを許可することが義務付けられています。これは、市場に新たなプレイヤーを参入させ、より技術中立的で統合された欧州決済市場の創出を目指すEUの明確な政策意図を反映しています。
デンマークの資金決済サービス・電子マネー法に関する公式情報は、Finanstilsynetのウェブサイトで確認することができます。
参考:デンマーク金融監督庁(Finanstilsynet) Betalingstjenesteområdet
https://www.finanstilsynet.dk/lovgivning/dansk-lovsamling/betalingstjenesteomraadet
主要な監督機関:デンマーク金融監督庁(Finanstilsynet)の役割
デンマーク金融監督庁(Finanstilsynet)は、デンマークにおける金融機関の規制と監督を担う主要な機関です。その監督対象は広範にわたり、銀行、証券取引所、保険会社、年金基金に加え、決済・電子マネー機関も含まれます。Finanstilsynetの役割は、単に法令遵守をチェックすることに留まらず、市場の信頼を維持し、金融システムの健全性を確保することにあります。
Finanstilsynetの監督責任の広範さは、FinTech企業であっても、伝統的金融機関と同等の厳格なリスク管理基準、特にAML/CFT(マネーロンダリング・テロ資金供与対策)ポリシーの整備が求められることを意味します。
さらに、決済システム全体の効率性と安全性に関して、Finanstilsynetと並行して重要な役割を担うのが、デンマーク国立銀行(Danmarks Nationalbank)です。国立銀行は1936年の中央銀行法に基づき、「国内の安全で確実な通貨システムを維持し、資金の流通と信用の拡張を促進・規制すること」を目的として設立されており、現在も、安定した金融システムと安全な決済の確保を主要な任務としています。国立銀行が議長を務めるデンマーク決済評議会は、市場関係者が知見を交換し、市場の効率性を高めるためのフォーラムとして機能しています。
この規制体制は、金融市場全体(FinTechを含む)が、中央銀行の長期的な金融安定性の目標と、Finanstilsynetによる厳格なリスク管理基準によって監視されていることを示しています。日本の法務担当者は、デンマークの規制が短期的なイノベーションへの対応だけでなく、1936年に制定された中央銀行法に遡る長期的なガバナンス体制に支えられた、極めて安定した政策的意図に基づいていると理解する必要があります。
デンマークでの決済サービス事業参入のための具体的な許認可要件
ライセンス取得が必要となる活動とEMIの要件
デンマークでは、FinTechビジネスに特化した個別の規制は存在しないものの、金融サービスを提供する場合は、既存の金融ビジネス規制の枠組み内で活動しなければなりません。具体的には、預金受入活動や消費者向け貸付、PSD2の付属書で定義される決済サービスの提供や電子マネーの発行、外国為替関連サービス、投資サービスおよび/または投資助言、そして保険活動といった活動を行う場合、Finanstilsynetからのライセンスが必要となる可能性があります。
特に、電子マネー機関(EMI)ライセンスは、FinTech企業が欧州市場へ参入するための一般的な経路の一つです。EMIライセンスを取得するためには、EU共通の基準に従い、以下の諸要件を満たす必要があります。まず、法人設立と授権資本として、デンマーク国内に実際の会社を設立し、最低初期資本として35万ユーロを預託しなければなりません。次に、顧客から受け取った資金を運営資金と分別し、強固に保全するための顧客資金の保全(Safeguarding)措置を講じる必要があります。さらに、詳細な事業計画、財務予測、ITシステムとインフラストラクチャに関する説明を含むガバナンス体制の整備が申請企業に義務付けられます。最後に、取締役の適格性(Fit & Proper)が厳格に審査されます。取締役および主要な経営陣は、誠実な評判と、電子マネー発行および決済サービス提供に適切な知識と経験を有していることが求められ、特に公開株式会社の場合、金融・電子決済分野での経験と知識を持つ少なくとも3名の取締役が必要とされます。
日本企業にとっての戦略的メリット:取締役の居住要件の柔軟性
EU圏内のEMIライセンス取得において、デンマークが他の主要な金融センターと異なる、日本企業にとって戦略的に有利な点があります。それは、取締役の居住要件に関する柔軟性です。
EU/EEA圏内では、規制上の監督を確保するため、多くの加盟国が取締役の一部または全員に対して居住要件を課しています。例えば、アイルランドでは通常、EU居住取締役が必須ですが、代替措置として高額な保険(ボンド)の加入が求められることがあります。
しかし、デンマークは、この点で極めて柔軟な姿勢をとっており、特別な保険や代替措置なしに、取締役の居住要件を課していません。この事実は、デンマークが、初期資本やAML/CTFといったEU共通のリスク管理基準では厳格さを維持する一方で、ガバナンスの人的要件(居住地)については大幅な柔軟性を持たせていることを示しています。
この柔軟性により、日本企業は、EU域内事業の立ち上げにおいて、現地の駐在員に経営責任を大きく依存することなく、日本本社の経営陣が関与した形で迅速かつ効率的な「パスポート」を取得し、EU市場への事業展開を進めることが可能になります。この人的資本配置の自由度は、北欧市場への参入を検討する日本企業にとって、大きな戦略的アドバンテージとなると言えるでしょう。
支払者の保護と不正取引における責任の所在:デンマーク法と日本法との決定的な差異

デンマークの資金決済法制が日本の法体系と最も決定的に異なるのは、不正利用が発生した場合の消費者保護のレベル、すなわち決済サービス提供者(PSP)に課される責任の重さです。これは、PSD2が消費者保護を極めて重視していることに由来します。
即時返金の原則とPSPの立証責任
デンマーク決済サービス・電子マネー法(DPA)はPSD2に整合しており、不正な決済取引が発生した場合、支払者は直ちに返金を受ける権利があると規定しています。
この「即時返金の原則」は、日本の一般的な慣行と比較してPSPに重い負担を課します。日本の金融機関や決済サービス提供者は、不正利用が疑われる場合、利用者の過失の有無や取引の調査を完了した後に補償プロセスに移るのが一般的です。
しかし、デンマーク法制下では、PSPが返金を拒否できるのは、支払者自身が詐欺行為に関与した兆候がある場合に限られます。これにより、PSPが不正行為の発生を否定し、返金義務を回避するためには、支払者が詐欺や意図的な義務不履行、あるいは重大な過失を犯したことを、より厳格に立証する必要があることが言えるでしょう。
厳格な「50ユーロ」の損失負担上限
PSD2は、消費者保護を強化するため、決済手段の紛失、盗難、または不正使用による不正取引が発生した場合の支払者の最大損失負担額について、厳格な制限を設けています。
支払者が詐欺行為や意図的な義務不履行、または重大な過失を犯していない限り、支払者が負担する損失の上限は、最大50ユーロ(約8,000円)に制限されます。この極端に低い法定上限は、EU域内の全てのPSPに適用されるものであり、日本の資金決済法制との最も決定的な差異となります。日本の資金決済法制には、このように一律に低額の損失上限を法定で定める規定は存在せず、補償の上限や条件は、各社の約款や業界のガイドラインに依存しています。
この厳格なリスク分配は、セキュリティ要件の遵守とPSPの財務リスクが密接に連動していることを示しています。例えば、PSD2は、PSPが義務付けられている強固な顧客認証(SCA)を実施しなかった場合、支払者が詐欺行為を犯していない限り、PSPが全ての財務的損失を負担しなければならないと定めています。
この法制は、不正利用リスクをほぼ完全にPSP側に内在化させる構造です。日本の法務部門は、デンマーク市場参入に際し、不正検知システムの性能とSCAのコンプライアンスを、日本国内の基準よりも遥かに高い優先度とコストで評価し、強固な防御体制を構築しなければ、予期せぬ巨額の財務リスクを負うことになりかねません。
以下に、デンマーク(PSD2準拠)と日本の資金決済における不正利用時の支払者責任の違いを整理します。
不正利用時の支払者責任比較
| 比較項目 | デンマーク(PSD2準拠) | 日本(資金決済法/各業態の補償ルール) |
| 不正取引発生時の基本原則 | 支払者は直ちに全額返金を受ける権利が原則。 | サービス提供者の調査を経て、約款やガイドラインに基づき補償される。 |
| 紛失・盗難等における支払者の最大損失(過失軽微の場合) | 支払者に詐欺や重大な過失がない限り、最大50ユーロに制限される。 | 特定の上限額の法定はない。過失がなければ全額補償されるのが一般的だが、法定の低額上限規定はない。 |
| PSPのセキュリティ義務と責任 | 強固な顧客認証(SCA)が義務付けられており、SCA不履行の場合、PSPがほぼ全額の責任を負う。 | システム保護や本人確認措置は義務付けられているが、SCA不履行時の全額責任といった構造は特化されていない。 |
デンマークの市場競争促進と「オープンバンキング」における法務リスク
PSD2の導入は、既存の銀行市場における競争を促進し、新規参入者である決済機関や情報提供サービスプロバイダー(AISP)のための市場アクセスを保証することを目的としています。デンマークでは、この目的が規制当局によって積極的に執行されています。
決済機関に対する非差別的アカウント提供義務の執行
デンマーク決済サービス・電子マネー法(DPA)第63条に基づき、信用機関(銀行など)は、決済機関がその顧客に効果的かつ円滑に決済サービスを提供できるように、決済口座サービスへのアクセスを客観的、非差別的、かつ比例的な条件で提供することが義務付けられています。
デンマーク競争・消費者庁(DCCA)は、信用機関がこの義務に違反し、決済機関へのアクセスを不当に拒否したり、差別的な条件を課したりする事例に対して、積極的な介入を行っています。
例えば、DCCAは2020年7月8日の決定において、信用機関が決済機関に対して他の法人顧客とは異なる条件を課す場合、その条件は、決済機関に固有の特殊な事情(例:固有のマネーロンダリングリスク)に基づき、客観的に正当化できるものでなければならないと判断しました。
この競争当局による介入は、Finanstilsynetが金融安定性の確保を担う一方で、DCCAが市場参入における競争阻害行為を積極的に監視・是正していることを示しています。新規参入を試みる決済機関は、伝統的な銀行とのシステム接続交渉や口座開設交渉において不当な障壁に直面した場合、DCCAを通じて公正な市場アクセスを確保するための訴求ルートが確保されていることが言えるでしょう。
イノベーション促進のためのデンマークの規制環境と規制サンドボックス「FT Lab」
FinTech企業が新しい技術やビジネスモデルを開発する際、既存の金融規制の枠組み内でどのように活動すべきかという法的課題が生じます。Finanstilsynetは、この不確実性を解消し、イノベーションを安全な環境で育むための制度的枠組みとして、規制サンドボックス「FT Lab」を提供しています。
規制サンドボックス「FT Lab」の機能と利用実態
FT Labは、新しい技術やビジネスモデルが、既存の金融規制の適用範囲内で位置づけにくい場合に、企業が安全な環境で試験運用できるプラットフォームとして設計されています。このラボは、FinTech起業家だけでなく、既存の企業も利用可能であり、Finanstilsynetとの協力の下、最大6ヶ月間のテスト期間が設定されます。
テストは、Finanstilsynetと企業が合意した特定の制限(例:顧客数や事業範囲)の範囲内で行われ、企業はライセンスが必要かどうかを効率的に明確にすることができます。FT Labの目的は、企業に規制上の課題を認識させ、コンプライアンスのアプローチについて議論する場を提供するとともに、当局自身が新技術の機能や応用を理解し、将来的な政策策定に役立てることにあります。
過去の事例として、初期のパイロットラウンドでは、機械学習やブロックチェーン技術に関するテストが行われました。特に注目すべきは、ブロックチェーンベースの決済ソリューションを提供するZTLment社との共同テストです。このテストを通じて、Finanstilsynetは、ブロックチェーンが決済インフラとして機能する場合と、決済サービスを構成する場合の法的地位の明確化を行いました。
Finanstilsynetは、この特定のビジネスモデルに対する規制評価が、EU加盟国の監督当局による初の事例である可能性があることを示しており 、FT Labが単なる実証実験の支援に留まらず、規制上の不確実性を低減し、公式な法的判断の取得を可能にするという、極めて実務的な価値を提供していることがわかります。日本企業が革新的なFinTechサービスでEU市場に参入する場合、この FT Labの利用は、法的なリスクヘッジ戦略として有効に機能すると考えられます。
まとめ
デンマークは、EUの改定決済サービス指令(PSD2)を厳格に適用し、高度なデジタル化と堅牢な消費者保護を両立させた、北欧市場における重要なFinTechハブです。
日本の経営者や法務部員にとって、デンマークの法制は、二つの対照的な側面を持つものとして捉えるべきです。一つは、国際的な経営陣の関与を容易にするEMIライセンスの柔軟性(取締役の居住要件なし)という、戦略的な組織展開における大きな利点です。もう一つは、不正取引における支払者の損失負担上限が50ユーロに制限されるという、日本法と比較して極めて強力な消費者保護義務と、それに伴うPSP側の重い立証責任およびシステム投資の必要性です。
事業参入を成功させるためには、この厳格な責任規定を念頭に置いた上で、PSD2が要求する強固な顧客認証(SCA)システムの導入と運用が不可欠となります。同時に、既存の銀行との公正な市場アクセスを確保するためのDCCAによる競争法上の積極的な執行や、新しい技術の法的適合性を事前に確認できる規制サンドボックス「FT Lab」の存在は、新規参入者にとって強力な後押しとなります。
これらの複雑な国際規制、特に日本の法制度との重要な差異を正確に理解し、コンプライアンスを確立することは、デンマークでの事業成功に不可欠です。モノリス法律事務所では、貴社のデンマーク市場参入に関する法的課題への対応をサポートいたします。
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務

































