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法律記事MONOLITH LAW MAGAZINE

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デンマーク労働法と「フレキシキュリティ」モデルの構造

デンマーク労働法と「フレキシキュリティ」モデルの構造

デンマークの労働市場モデル、通称「フレキシキュリティ」(Flexicurity)は、柔軟な雇用(Flexibility)と手厚い社会保障(Security)、そして積極的な労働市場政策(Active Labour Market Policy: ALMP)が相互に作用しあう「黄金の三角形」として、国際的に注目されています。日本企業がデンマークでの事業展開を検討する際、このモデルを深く理解することは、人事戦略や法務リスク管理において極めて重要です。このモデルは、雇用主が市場の変化に応じて迅速に人員調整を可能にする柔軟性を提供する一方で、労働者は失業しても高水準の手当と再訓練の機会によって守られ、次の仕事を探せるという安心感を得ています。

デンマークの労働法制を特徴づけるのは、政府の介入が最小限に抑えられ、賃金や労働条件の多くが使用者団体と労働組合(ソーシャル・パートナー)間の団体交渉協約(CBA)によって決定される点です。これは、法令が労働条件を厳格に規律する日本法とは根本的に構造が異なります。特に日本の経営者や法務部員にとって、デンマークでは整理解雇の合理性が比較的緩やかに認められる一方で、従業員の流動性が極めて高く、労使関係の構築が事業成功の鍵を握るという、二律背反的な状況への適応が求められます。

本稿では、このフレキシキュリティ・モデルの法的基盤と、日本法との決定的な差異について詳細に解説します。

デンマークのフレキシキュリティ:労使団体による「ソーシャル・パートナーシップ」

デンマークの労働市場は、法的な枠組みが最小限に留まり、労使団体による高度な自治(ソーシャル・パートナーシップ)に基づいて規律されているという点で、日本や多くの大陸法圏の国々とは大きく異なります。

団体交渉協約(CBA)が担う中心的な役割

デンマークにおいて、賃金水準や具体的な労働条件は、政府の法令によって定められるのではなく、労働組合と使用者団体との間で締結される団体交渉協約(Overenskomstが中心的な役割を果たします。この労使間の長年にわたる対話と協力は、1899年に使用者団体(Confederation of Danish Employers’ / DA)労働組合連合(Danish Federation of Trade Unions / LO)が和解し、労使の権利を相互に認め合った歴史的経緯に基づいています。

この自律的なシステムの結果として、デンマークには法定最低賃金が存在しません。賃金は団体交渉によって設定され、これにより比較的高水準の賃金が維持されています。労働力の約82%が団体協約によってカバーされているというデータからもわかるように、労働組合の影響力は非常に強力です。

企業が使用者団体に加盟している場合、その企業は当該団体の協約に法的に拘束されます。非加盟企業であっても、労働組合からの要求や市場標準圧力により、業界の団体協約の条件を事実上遵守することが、円滑な事業運営のために不可欠となります。この集団的労使関係が強固である構造は、硬直的な法律による規制を代替し、企業が市場の動向に合わせて労働条件を柔軟に変更することを、政府ではなく労使との対話を通じて可能にしていると理解されます。したがって、日本企業は、単に法令を遵守するだけでなく、現地の主要な労使団体の動向を常に把握し、能動的に良好な労使関係を構築するための戦略が求められます。

デンマークの「柔軟な雇用」(Flexibility):解雇規制の法的構造と日本法との対比

フレキシキュリティ・モデルの「柔軟性」の柱は、雇用主が市場や経済状況の変化に対応して、比較的容易に人員を調整できる解雇制度にあります。

サラリー従業員法に基づく「正当な理由」の解釈

デンマークにおいて、サラリー従業員(ホワイトカラー)の雇用関係を規律する主要な法令は、「サラリー従業員法」(Functionærloven)です 8。この法律に基づき、雇用主が従業員を解雇する場合、常に「実質的な理由」(substantial reason)が必要とされます 9

この「正当な理由」には、従業員側の問題(例:能力不足、協調性の欠如、業務上の不正行為)だけでなく、企業側の状況による理由が明確に含まれます。具体的には、業務不足、再編、コスト削減といった経営上の必要性に基づく解雇(整理解雇)が認められています。

この経営上の必要性に基づく解雇(整理解雇)の合理性に関する解釈と運用は、日本の労働法における解雇規制と大きく異なります。日本の労働契約法では、解雇権濫用の法理に基づき、特に整理解雇については「整理解雇の4要素」(人員削減の必要性、解雇回避努力、人選の合理性、手続きの妥当性)が厳格に審査され、解雇は原則として最終手段と見なされます。これに対しデンマークでは、経営上の必要性を理由とする人員調整の合理性が、日本よりも緩やかに認められる傾向にあります。これにより、企業は日本国内よりも迅速に、経営判断に基づいた人員配置の変更を行うことが可能となっています。

義務付けられた解雇通知期間

解雇が正当な理由に基づいて行われる場合でも、雇用主はサラリー従業員法に基づき、勤続年数に応じた通知期間を遵守する義務があります。

勤続期間雇用主から従業員への通知期間
6ヶ月未満1ヶ月
6ヶ月以上3年未満3ヶ月
3年以上6年未満4ヶ月
6年以上9年未満5ヶ月
9年以上6ヶ月

試用期間中については、通常14日という短い通知期間が設定されています 8

不当解雇に対する救済措置:金銭補償の原則

日本の労働法において、解雇が無効と判断された場合、従業員は雇用契約上の地位を保全され、解雇期間中の賃金(バックペイ)の支払いを命じられるのが原則です。これは、企業にとって予測不能で大きな財務リスクとなります。

一方デンマークでは、解雇が不当と判断された場合の救済措置は、原則として金銭補償によって解決に至る傾向が強いです。この金銭補償は、日本の「地位保全」とは異なり、解雇リスクを「定量化された財務リスク」に変換している点が最大の特徴です。

ただし、勤続年数によって保護レベルが異なります。勤続12ヶ月未満のサラリー従業員は、原則として不当解雇に対する補償保護の対象外です。勤続12ヶ月以上の従業員に対する補償額には上限があり、勤続年数に応じて、最大で6ヶ月分の給与に達する可能性があります。

なお、不当解雇による補償とは別に、勤続12年以上17年未満の従業員には1ヶ月分、17年以上の従業員には3ヶ月分の給与に相当する退職金(Severance Pay)が支払われることが義務付けられています。

差別的解雇のリスクと補償

柔軟な解雇が許容されるとはいえ、雇用主は解雇手続きにおいて公正性を欠いたり、差別禁止法に違反したりしてはなりません。特に、性別、障害、妊娠・出産などの理由に基づく差別的な解雇と判断された場合、金銭補償額は高額になるリスクがあります。

例えば、ある地裁の判決では、教育機関の財務状況を理由とした整理解雇であったものの、従業員が産休中であったこと、および差別的解雇に該当することが認められ、約12ヶ月分の給与に相当する総額の補償金が従業員に支払われた事例があります。この事例は、たとえ経営上の合理性があっても、人選プロセスにおいて差別禁止法上の配慮を欠いた場合、高額なペナルティを招くことを示唆しています。したがって、日本企業は、柔軟な解雇制度を運用するにあたり、「理由の幅」が広いことと、「手続きの公正性」を疎かにして良いことは全く別である点に、細心の注意を払う必要があります。

デンマークおける雇用の安全性を支える「セキュリティ」の柱

デンマークおける雇用の安全性を支える「セキュリティ」の柱

デンマークの労働者が高い流動性を受け入れられるのは、失業した際の強固な社会安全網(セキュリティ)が存在するためです。

失業保険基金(A-kasse)と失業手当(Dagpenge)制度

デンマークの失業保険制度は、失業保険基金(A-kasseと呼ばれる私的な協会への任意加入によって成り立っています。加入者は、失業後に失業手当(Dagpengeを受け取ることができ、その額は前職給与の最大90%に達し、最長2年間(標準給付期間)支給されます。これは、特に所得の低い労働者にとって手厚い保障となり、失業中の生活不安を大幅に軽減する機能を持っています。

ただし、この手厚い給付を受けるためには、厳格な要件を満たす必要があります。受給者は、失業初日から地方のジョブセンターに求職者として登録すること、A-kasseに最低1年間加入していること、過去3年間に一定水準の所得(2025年基準でDKK 273,504以上)を得ていること、そして労働意欲があり、ジョブセンターが承認する完全なCVを2週間以内に提出することなど、継続的な求職活動要件を満たす必要があります。

積極的な労働市場政策(ALMP)の機能

セキュリティのもう一つの柱が、政府が主導する積極的な労働市場政策(ALMP)です。これは、失業者を単に経済的に支援するだけでなく、彼らが迅速に労働市場に再統合されることを促すための動的な措置です。

ALMPは、教育、職業指導、スキルアップのための再訓練プログラム、公共または民間企業での賃金補助付き雇用などの形で行われます。失業手当の受給者には、これらのプログラムに参加する「権利と義務」が制度に組み込まれており、積極的な再統合を法的な枠組み(例:Act No. 398 of 2000 to amend the Unemployment Insurance Act and the Active Employment Market Policy Act)に基づき推進しています。

このALMPの役割は、失業者が市場から長期的に隔絶されるリスクを防ぐことにあります。高水準の失業手当が労働者の購買力を維持しつつ、ALMPが労働力の質を維持・向上させることにより、企業側は市場の変化に適応し再訓練された質の高い労働者を迅速に採用できるメリットを享受します。このことから、「セキュリティ」の柱は、単なる社会福祉ではなく、柔軟な市場運用を支えるための「人的資本投資」として機能していることが分かります。

デンマーク市場参入のための企業戦略:流動性と労使関係への適応

日本企業がデンマークで事業を展開するにあたっては、フレキシキュリティ・モデルがもたらす構造的な特徴に適応した人事・法務戦略を構築しなければなりません。

高度な労働力流動性への適応

フレキシキュリティは、労働者がキャリアアップやより良い条件を求めて転職することに積極的であるという文化を醸成しています。民間企業の従業員の約25%が毎年転職しているというデータが示すように、デンマークの労働力の流動性は極めて高い水準にあります。

この高い流動性は、終身雇用を前提とした日本の育成戦略とは根本的に異なります。日本企業は、優秀な人材の獲得と保持(Retention)を最優先課題とし、労働市場における競争力を意識した報酬体系や福利厚生、そして明確なキャリアパスの設計が不可欠となります。

団体交渉協約への理解と労使関係の構築

デンマークでは労働条件の多くが団体協約によって決定されるため、進出企業は、自社の事業がどの団体協約(CBA)に該当するのか、その協約がどのような労働条件を定めているのかを深く理解し、遵守する必要があります。

労働紛争が生じた場合、日本の労働委員会や地方裁判所にあたる労使裁判所(Arbejdsrettenが主要な紛争解決機関となります。労使関係を円滑に進めるためにも、現地の使用者団体や労働組合と協力的な関係を構築することが、労働紛争リスクを回避する上で重要な戦略となります。

定量的な金銭リスクの管理

柔軟な解雇制度の下では、解雇リスクは金銭的な補償として明確に定量化されています。これは、整理解雇の4要素の充足を巡って解雇の有効性自体が争われる日本の法体系と対照的です。人事および法務部門は、従業員の勤続年数、年齢、および解雇時の状況に基づき、解雇時に発生し得る通知期間および金銭補償額の最大値を事前に算出し、財務リスクとして予測可能な範囲で管理を行う必要があります。

項目デンマーク(フレキシキュリティ・モデル)日本(労働契約法/解雇権濫用の法理)
解雇の柔軟性(経営上の理由)比較的緩やかに合理性が認められる(企業判断が尊重される傾向)。厳格に審査される(整理解雇の4要素)。解雇回避努力義務の負担が重い。
不当解雇時の主要な救済金銭補償が主流(上限設定あり)。雇用継続(解雇無効の場合、地位保全)。
法定最低賃金存在しない。賃金水準は団体交渉協約で設定。存在する(最低賃金法)。
労働条件の主要な根拠団体交渉協約(CBA)が優位。法令(労働基準法、労働契約法等)が優位。
失業中の所得保障高所得代替率(最大90%)、長期給付(最長2年)。雇用保険制度。給付水準は賃金の50%〜80%程度。

まとめ

デンマークのフレキシキュリティ・モデルは、柔軟な雇用と手厚い社会保障、そして積極的な再就職支援が組み合わさった、非常に動的で洗練された労働市場システムです。日本企業にとって、このモデルは、市場の変化に迅速に対応するための人員配置の柔軟性をもたらしますが、同時に、労働力の高い流動性、強力な団体交渉の影響、および金銭補償を前提とした法務リスク管理能力を要求します。

このモデルを成功裏に活用するためには、単に「解雇が容易」という一面的な理解に留まらず、団体交渉協約の遵守、差別的解雇のリスク回避、そして現地の労働市場の高い流動性を前提とした人材獲得・保持戦略を統合的に構築することが不可欠です。デンマークへの事業展開に伴う人事・労務戦略の策定、および国際的な労働法制の差異への具体的な対応については、当事務所が法的なサポートを提供いたします。

弁護士 河瀬 季

モノリス法律事務所 代表弁護士。元ITエンジニア。IT企業経営の経験を経て、東証プライム上場企業からシードステージのベンチャーまで、100社以上の顧問弁護士、監査役等を務め、IT・ベンチャー・インターネット・YouTube法務などを中心に手がける。

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