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法律記事MONOLITH LAW MAGAZINE

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アイルランド共和国の法律の全体像とその概要を弁護士が解説

アイルランド共和国の法律の全体像とその概要を弁護士が解説

テクノロジーと金融の中心地として、アイルランドは欧州市場への進出を目指す日本企業にとって、極めて魅力的な拠点となっています。しかし、アイルランドの法制度は、日本が採用する大陸法(シビル・ロー)とは根本的に異なる、判例を重視する英米法(コモン・ロー)を基盤としています。さらに、欧州連合(EU)加盟国として、アイルランド国内法はEU法の優位性というユニークな原則に服します。

本稿では、アイルランドへの事業展開を検討する日本の経営者や法務部員の皆様に向けて、アイルランドの法体系の全体像を解説します。特に、会社設立、外国投資、労働、個人情報保護、AI、広告規制など、ビジネスに直結する分野に焦点を当て、日本法との重要な相違点を詳細に比較することで、皆様が直面する可能性のある法的課題を深く理解し、適切な戦略を立てるための一助となることを目指します。

アイルランドの法体系と司法制度

判例法(コモン・ロー)の原則と裁判官の役割

アイルランドの法制度は、中世イングランドで発展したコモン・ロー(判例法)をその起源としています。この法体系は、包括的な法典(民法典、会社法典など)に基づいて法の解釈・適用を行う日本のシビル・ロー(大陸法)とは、根本的に異なるアプローチを持っています。コモン・ローの下では、過去の裁判所の判断(precedent)が法的な拘束力を持ち、類似の事案では同様の判断がなされるべきという「先例拘束性の原則」が中心的な役割を果たします。

この法体系において、裁判官は単に法律を適用するだけの存在ではありません。彼らは過去の判例を詳細に参照し、新たな法的規範を形成する重要な役割を担います。日本の法務担当者が六法全書などの成文法を第一の法源として法的判断を下すことに慣れている一方で、アイルランドの法務実務では、関連する制定法だけでなく、過去の裁判例を丹念に調査し、自社のケースとの類似性や相違点を分析することが不可欠となります。これにより、成文法に明記されていない領域でも、過去の判例の積み重ねから法的リスクを予測し、議論を組み立てることが求められることになります。これは、単に法律を調べるだけでなく、過去の裁判例データベースを駆使し、法的議論を構成するという法務実務の根本的な変化を示していると言えるでしょう。

EU法とアイルランド憲法第29条

アイルランドが欧州連合(EU)加盟国であることは、その法体系にコモン・ローに加えてもう一つの決定的な法源を加えています。それは「EU法の優位性(primacy)」という原則です。この原則は、EU加盟国がEUに権限を委譲した分野(例:単一市場、環境、データ保護など)において、EU法が国内法(憲法を含む)に優先するという考え方に基づいています。

このEU法の優位性を明確にするため、アイルランドは国民投票を通じて憲法第29条を改正しました。これにより、「EU加盟義務により必要とされる法令は、本憲法のいかなる規定によっても無効とならない」という条項が盛り込まれています。アイルランドは国家としての主権を保持しつつ、特定の分野ではその主権の一部をEUに「プール(pooling)」しているという概念から、このような二重構造が形成されています。その結果、アイルランドの法源は、EU法が最上位に位置し、その下にアイルランドの制定法やコモン・ローの判例が続くという階層構造を形成しています。

階層的な司法制度と民事訴訟

アイルランドの裁判所制度は、5つの階層に分かれています。下から、District Court(地方裁判所)、Circuit Court(巡回裁判所)、High Court(高等裁判所)、Court of Appeal(控訴裁判所)、そして最上位のSupreme Court(最高裁判所)です。

民事訴訟では、金銭的請求額に応じて裁判所の管轄が定められています。

  • District Court: 15,000ユーロ以下の請求
  • Circuit Court: 15,000ユーロ超75,000ユーロ以下の請求
  • High Court: 75,000ユーロ超の請求(上限なし)

このように請求金額に応じた裁判所の管轄が段階的に明確に分かれていることは、日本の裁判所制度にはない特徴です。日本では簡易裁判所と地方裁判所の管轄は金額で分かれますが、アイルランドのCircuit CourtとHigh Courtのように段階的に細分化されているわけではありません。この構造は、日本企業がアイルランドで訴訟を提起または提起される際に、最初からどの裁判所が管轄権を持つかを予測しやすくなり、それに伴う訴訟費用や期間の初期的な見通しが立てやすくなるという実務的な利点があると言えるでしょう。

日本アイルランド
法体系大陸法(シビル・ロー)英米法(コモン・ロー)+EU法
主要法源制定法・法典制定法・判例・EU法
裁判官の役割法の適用法の解釈・形成
最高位裁判所最高裁判所Supreme Court
民事訴訟の管轄原則として地方裁判所請求額に応じた階層的な管轄

アイルランド事業展開の基盤となる主要法分野

アイルランド事業展開の基盤となる主要法分野

会社法とコーポレートガバナンス

アイルランドの会社法は、2015年に施行された「Companies Act 2014」によって統合・改革されました。この法律は1584のセクションと22の付属書からなる、同国史上最大の法律であり、従来の会社法に加えて企業倒産法も統合しています。

本法でデフォルトの会社形態として定められたのが「Private company limited by shares (LTD)」です。日本企業にとって最も注目すべき点は、LTDは1名の取締役で設立が可能であるという点です。日本の会社法では、原則として取締役1名に加え、代表取締役1名(取締役が1名の場合はその者が代表取締役)を置く必要があるため、LTDはより柔軟な組織設計を可能にします。ただし、LTDには最低1名の秘書役(company secretary)を置く義務があります

上場企業向けのコーポレートガバナンスでは、2025年1月1日以降の会計年度から「Irish Corporate Governance Code 2024」が適用されます。このコードの中核となる原則は「Comply or Explain」(遵守せよ、さもなくば説明せよ)モデルです。これは、厳格なルール遵守を求めるのではなく、原則から逸脱する場合にはその理由を年次報告書で開示・説明するよう企業に求めるものです。アイルランドの会社法(特にLTDの単独取締役制度)は、設立・運営の柔軟性を追求している一方で、コーポレートガバナンスにおいては、「遵守か、さもなくば説明」という原則を通じて、形式的なルール遵守ではなく、実質的な説明責任を企業に課しています。これは、形式を重んじる日本の会社法とは異なるアプローチです。日本企業がアイルランドで事業を行う際、単に規則に従うだけでなく、ガバナンス上の選択について、なぜその選択をしたのかを論理的に説明できる能力が求められると言えるでしょう。

外国投資規制とScreening of Third Country Transactions Act 2023

アイルランドは長らく外国投資に寛容な姿勢を取ってきましたが、国家安全保障上のリスクに対応するため、2025年1月6日に「Screening of Third Country Transactions Act 2023」が施行されました。この新法は、日本を含むEU/EFTA域外の国からの投資が、特定の「クリティカルセクター」に関連する場合、当局への事前届出と審査を義務付けるものです。

審査対象となる主な分野には、エネルギー、輸送、通信、データ処理などの「クリティカル・インフラ」や、AI、ロボット工学、半導体、サイバーセキュリティなどの「クリティカル・テクノロジー」が含まれます。この法律は、国家安全保障上の懸念に対応するというEU全体の動きと足並みを揃えるものであり、アイルランドが従来の「自由な投資環境」という前提に戦略的な保護主義を加えたことを示唆しています。日本企業が特にハイテク分野やインフラ関連事業への投資を検討する場合、M&A計画の初期段階からこの新たな審査制度を織り込み、審査に備える必要があります。

アイルランドの新興分野における法規制とコンプライアンス

個人情報保護:GDPRの広範な影響

アイルランドはEUのGDPR(一般データ保護規則)の適用対象国であり、これは日本企業がアイルランドで事業を行う上で最も重要な法的枠組みの一つです。GDPRの最も重要な特徴は、その「域外適用」です。EU域内に拠点がなくとも、EU市民に商品やサービスを提供したり、その行動を監視したりする企業はGDPRの適用を受けます。

GDPR違反には高額な行政罰が科せられる可能性があります。違反の重大性に応じて、最大で全世界年間売上高の4%または2,000万ユーロのいずれか高い方が罰金として課されます。アイルランドのデータ保護委員会(DPC)は、多くの主要テック企業がアイルランドにEU拠点を置いているため、GDPRの「リード監督機関」として、これらの企業に対する大規模な調査・執行を担っています。実際、DPCはMeta社に対し、数十億ユーロ規模の罰金を科す決定を下しています。これは、アイルランドが単なるビジネス拠点ではなく、EU全体のデジタル法規制の最前線であり、DPCがその執行ハブとしての役割を担っていると言えるでしょう。日本企業がアイルランドに拠点を置くことは、この最前線に身を置くことを意味するため、より厳格なコンプライアンス体制と、DPCによる厳格な監督を受ける覚悟が求められます

AI規制:EU AI Actの導入と段階的適用

EUは、世界で初めての包括的なAI規制法である「EU AI Act」を制定しました。この法律は、AIシステムをそのリスクの程度に応じて分類し、規制を課す「リスクベース・アプローチ」を採用しています。

  • 「許容できないリスク(Unacceptable risk)」:人々の安全、生活、権利に対する明確な脅威と見なされるAIシステムは禁止されます。これには、ソーシャルスコアリングや、職場・教育現場での感情認識、顔認識データベースを構築するためのネット上の無差別な画像収集などが含まれます。
  • 「ハイリスク(High risk)」:健康、安全、基本的権利に重大なリスクをもたらすAIシステムは、市場に出る前に厳格な要件(リスク管理、データ品質、人間による監督など)を満たす必要があります。これには、交通などのクリティカルインフラにおけるAI安全部品、採用プロセスにおけるCV選別ソフトウェア、司法におけるAIシステムなどが含まれます。

アイルランド政府は、このAI Actの執行のために、データ保護委員会(DPC)、保健製品規制当局(HPRA)、中央銀行(CBI)など、既存の分野別規制機関を「国家有能当局(National competent authorities)」に指定するという「分散型規制モデル」を承認しました。EU AI Actはまだ適用が始まったばかりですが、そのリスクベースのアプローチは今後のグローバルスタンダードとなる可能性が高いと言えるでしょう。アイルランドは、既存の各分野の専門機関にAI規制の執行権限を与えることで、専門性と効率性を両立させようとしていることから、日本企業がAI関連事業をアイルランドで展開する際には、単一のAI専門法務だけでなく、各事業分野の規制当局の動向を包括的にモニタリングする必要があることを意味します。

アイルランドの労働法

アイルランドの労働法

アイルランドの労働法は、日本とは異なる実務上の注意点を多く含んでいます。

  • 労働時間:従業員の週平均労働時間は48時間を超えてはならないという制限があります。特に、英国とは異なり、従業員がこの制限から「オプトアウト」することはできません。
  • 不当解雇:アイルランドでは、解雇は雇用主が「正当な理由(substantial grounds)」と「適正な手続き(fair procedures)」を証明できない限り、「不当解雇」と推定されます。これは、使用者側に解雇の正当性を証明する明確な責任があることを意味します。
  • 労働紛争の解決:紛争が発生した場合、労働紛争の解決を専門とする公的機関である「Workplace Relations Commission (WRC)」が、調停、仲裁、権利委員による調査などの非司法的解決サービスを提供しています。労働紛争は、WRCのような専門機関が介在することで、必ずしも裁判所で解決されるとは限りませんが、その過程で企業には厳格な手続きの遵守が求められます。

アイルランドの広告規制と自主規制の仕組み

アイルランドの広告およびマーケティング規制は、主に「Advertising Standards Authority for Ireland (ASAI)」による自主規制によって成り立っています。ASAIは業界によって資金提供されており、法的強制力を持たないものの、その「行動規範(Code of Standards)」に違反した広告には、取り下げや修正を求めることができます。ASAIの行動規範は、広告が「合法的、品位があり、誠実かつ真実である」ことを目指しており、デジタル広告を含むあらゆる商業コミュニケーションに適用されます。

ただし、金融サービスや医薬品など特定の分野の広告については、ASAIの自主規制に加え、中央銀行やHPRAといった各規制当局による厳格な法定規制も存在します。広告分野におけるASAIの役割は、業界全体の信頼性維持と消費者からの苦情対応を目的としており、比較的迅速に問題解決が図られることが多いと言えます。しかし、金融や医療といった消費者保護が特に重視される分野では、この自主規制に加え、政府機関による厳しい法定規制が存在します。このことから、ビジネスモデルに応じて、自主規制の「ソフトな」規範と、法定規制の「ハードな」義務の両方を理解し、遵守する必要があることがわかります。

まとめ

アイルランドの法制度は、判例を重視するコモン・ローの伝統と、EU加盟国としてのEU法の優位性という、二つの大きな特徴を併せ持っています。これは、成文法を基盤とする日本の法体系とは大きく異なり、事業展開においては、単に法律条文を理解するだけでなく、その背景にある法的思考、すなわち判例やEU法の動向を把握することが不可欠です。

特に、会社設立の柔軟性、知的財産に対する優遇税制といった魅力的な要素がある一方で、外国投資審査、GDPRやAI Actといった新しい規制は、日本企業に厳格なコンプライアンス体制の構築を求めます。これらの法制度の独自性と複雑性は、専門的な知見なしに事業を進めることの難しさを示しています。

モノリス法律事務所は、アイルランドのダイナミックな法環境と、日本企業のビジネス慣習の両方を深く理解しています。アイルランドへの進出をご検討中の皆様が、複雑な法的課題を乗り越え、事業を成功に導くため、会社設立から日々の法的リスク管理、M&Aやコンプライアンス体制構築に至るまで、包括的なリーガルサポートを提供いたします。アイルランドにおける法務に関するご相談は、ぜひ当事務所までお気軽にお問い合わせください。

関連取扱分野:国際法務・海外事業

弁護士 河瀬 季

モノリス法律事務所 代表弁護士。元ITエンジニア。IT企業経営の経験を経て、東証プライム上場企業からシードステージのベンチャーまで、100社以上の顧問弁護士、監査役等を務め、IT・ベンチャー・インターネット・YouTube法務などを中心に手がける。

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