スイスの労働法の解説:労働時間、解雇の自由、社会保障制度

スイス連邦(以下、スイス)は、連邦主義と自由経済の伝統に基づき、ヨーロッパの中でも際立って柔軟で自由度の高い労働法制を採用しています。特に、日本の経営者や法務部員が留意すべき最大の特徴は、「解雇の自由」原則です。これは、雇用主が正当な理由なく従業員を解雇できることを意味しますが、同時に、法廷での金銭補償リスクを最大6ヶ月分の給与に限定する仕組みが存在します。これにより、予見可能性の高いリスクマネジメントが可能になっています。
また、スイス労働法は、私法であるスイス債務法(OR/CO)と、公法である連邦労働法(ArG/EmpA)という二つの柱で構成されており、企業は双方の規定を遵守する義務を負います。労働時間の上限は職種に応じて週45時間または50時間と定められ、年次有給休暇は最低年4週間(20歳未満は5週間)が保証されています。社会保障については、年金、障害保険、失業保険(ALV)の拠出が雇用主に義務付けられており、特にALVは自営業者を除く全被雇用者に強制加入です。
本稿では、このスイス労働法の主要な構造、労働時間、法定休暇、強制加入の社会保障制度、そして最も重要な雇用契約の終了規制について、日本の法制度との重要な違いを比較しつつ、事業運営に必要な専門的知見を提供します。特に、濫用的解雇の「有効性」と、病気や妊娠期間中の解雇が「無効」となる保護期間(ブロッキング期間)に関する法的効果の違いは、日本企業が最も注意すべき相違点です。
この記事の目次
スイス労働法の二重構造と労働時間・休暇の法定原則
スイスの雇用関係を規律する法体系は、日本の法体系とは異なり、主に私法と公法の二重構造を成しています。雇用契約の定義や権利義務、契約の終了など私法的な側面は、スイス債務法(Swiss Code of Obligations, OR/CO)の第319条以下に定められています。ORは個々の雇用契約、または団体交渉によって締結される労働協約の基盤となります。
一方で、連邦労働法(Employment Act, ArG/EmpA)は公法として、労働者の健康保護と安全確保を目的とし、最大労働時間、休息時間、夜間・日曜労働の条件、妊婦や未成年者の保護といった公的な労働条件を詳細に規制しています。企業は、雇用契約の自由を認めるORを基盤としつつ、労働時間や休憩に関するArGの厳格な公法上の規定を必ず遵守する義務を負います。
労働時間の法定上限と「超過勤務」の概念
スイス法における法定の最大労働時間は、職種によって明確に区分されています。法定の最大労働時間は、工業従事者、事務職員、技術者、および大規模小売業の販売員に対しては週45時間と定められています。これに対し、その他のすべての商業企業やサービス業など、上記に含まれない従業員に対しては、週50時間が法定上限とされます。
日本法では原則として週40時間の法定労働時間が適用されることを鑑みると、スイス法は特定の職種に対して週45時間または50時間という、より長い上限を設定しており、労働時間に関して日本よりも柔軟な基準を採用していると言えます。
さらに、スイスでは、契約上の「通常労働時間」と法定の「最大労働時間」の間に生じる労働の区別が実務上重要となります。多くの企業や労働協約においては、通常労働時間を40時間から44時間の範囲で設定しています。この契約上の通常労働時間を超え、かつ法定上限(45時間または50時間)を超えない範囲の労働は「超過勤務」(Overtime)と呼ばれます。超過勤務は私法上の規制(OR)を受け、原則として25%の割増賃金が義務付けられますが、書面による合意があれば、時間による相殺(代償休暇の付与)や、割増賃金の支払い自体を免除することが可能です。
これに対し、法定上限(45時間または50時間)を超える労働は公法上の「超過労働時間」(Excess Working Hours)として扱われ、ArGのより厳格な規制対象となります。企業は、契約上の通常労働時間を設定することで、法定上限との間の労働時間管理における柔軟性(割増賃金の免除可能性など)を確保できる構造となっているため、人事戦略においてこの区別は極めて重要です。
法定年次有給休暇の取得義務
スイスでは、雇用主は従業員に対して最低限の有給休暇を与える義務を負っており、これはスイス債務法第329条a(OR 329a)によって規定されています。
具体的には、勤続1年後には、すべての従業員に最低年4週間の有給休暇が保証されています。これは週5日勤務の場合、20労働日に相当します。特に、若年者保護の観点から、20歳未満の従業員に対しては、最低年5週間(25労働日)の有給休暇が保証されています。
OR 329dに基づき、休暇はあくまで労働者の休養のために利用されるべきという原則があり、雇用関係の継続中は、休暇を金銭その他の給付で代償することは原則として許されていません。この規定は絶対的な強行規定であり、原則としていかなる契約によっても変更はできません。ただし、判例上、短期間の臨時雇用や、勤務時間が非常に不規則で休暇取得が実質的に意味をなさないパートタイム労働など、例外的な場合に限り、給与に休暇手当を含めることが許容されています。この例外が適用される場合であっても、契約書に休暇手当の権利を明記し、給与明細にその割合と金額(スイスフラン建て)を分けて明確に記載することが連邦最高裁判所の判例によって求められています。
スイス雇用関係終了の原則:解雇の自由と濫用防止策
スイス労働法における雇用契約の終了規制は、日本の労働契約法が採用する「解雇権濫用法理」(解雇に客観的合理的な理由と社会的相当性が必要)とは根本的に異なります。スイス債務法第335条(OR 335)は、解雇の自由(Kündigungsfreiheit)を原則としており、期間の定めのない雇用契約において、雇用主と従業員のいずれの当事者も、特定の理由を提示することなく一方的に契約を終了させることが可能です。ただし、解雇権を行使する際には、法定または契約上の解雇予告期間を遵守する必要があります。
法定の解雇予告期間と遵守義務
解雇の自由が原則であっても、雇用主はスイス債務法第335条c(OR 335c)に定められた法定の解雇予告期間を遵守しなければなりません。この期間は、勤続年数に応じて延長されます。
| 勤続期間 | 法定解雇予告期間(OR 335c) |
| 試用期間中 | 7日間 |
| 1年目 | 1ヶ月 |
| 2年目~9年目 | 2ヶ月 |
| 10年目以降 | 3ヶ月 |
当事者は、契約または包括的な労働協約(CBA)によってこれらの期間を延長することは可能ですが、法定の期間を短縮することは許されていません。
「濫用的な解雇」(Abusive Dismissal)の法的効果と補償金制度
解雇の自由は認められますが、その権利の行使が「濫用的」(abusive)である場合は禁止されています(OR 336)。濫用的解雇とは、特定の動機や目的によって行われる不適切な解雇を指します。典型的な例としては、性別、人種、国籍などの内在的な個人的属性に基づく解雇、憲法上の権利行使を理由とする解雇、または従業員が善意で雇用契約に基づく正当な請求権を主張したことに対する報復解雇などが挙げられます。
【日本法との決定的な相違点:解雇の有効性】
日本の解雇権濫用法理に基づけば、解雇が濫用と判断された場合、その解雇は無効となり、雇用主は原則として従業員の地位を継続させる義務を負います。しかし、スイス法における最大の特徴は、解雇が「濫用的」であると裁判所が判断した場合でも、解雇の効力自体は原則として影響を受けず、雇用関係は予告期間の満了をもって有効に終了するという点です。
濫用的解雇に対する唯一の法的救済措置は、雇用主に対する補償金(Indemnity)の支払命令です。この補償金の上限は、法律によって最大6ヶ月分の給与と定められています。裁判所は、個別の事案のすべての状況を考慮し、裁量によって補償額を決定します。この最大6ヶ月分という金銭的な上限が設定されていることにより、スイスの雇用主は、解雇に伴うリスクを定量的に把握しやすく、リスクマネジメントの予見可能性が高いという利点があります。
ただし、性差別を理由とする解雇のみは、例外的に解雇が無効とされ、従業員の復職が命じられる可能性があります。
【連邦最高裁判所による異議申立の要件】
従業員が濫用的解雇による補償金を請求するためには、スイス債務法第336条b(OR 336b)に基づき、解雇通知期間の終了時までに雇用主に対して書面で異議を申し立てる必要があり、その後180日以内に訴訟(または調停手続き)を開始する必要があります。
連邦最高裁判所は、この異議申立の要件について厳格な解釈を示しています。例えば、2025年9月16日の裁定などの最新の判例では、OR 336bに基づく有効な異議申立のためには、従業員が雇用関係の継続を望む意思を示している必要があると再確認されました。本来、濫用的解雇は解雇の有効性を争うものではなく、金銭補償を求めるものであるため、この「雇用継続の意思」の要求は法令の文言上の根拠がないとして議論を呼んでいます。しかし、実務上、この判例は、雇用主が「従業員が解雇時に既に他の雇用契約を締結するなど、真に雇用継続の意思がなかった」という事実を立証することで、補償金請求に対する防御を可能にする重要な根拠となるため、日本企業は十分な注意を払う必要があります。
雇用主による「不当な解雇」(Untimely Termination)の保護期間
解雇の自由の原則に対するもう一つの重要な例外が、特定期間中の解雇を禁止する「不当な解雇」(Untimely Termination)の保護規定です(OR 336c)。この規定は、従業員が病気、事故、妊娠といった状況にある間、一定期間の解雇から従業員を保護するものです。
雇用主が以下の保護期間中に解雇通知を出した場合、その解雇通知は「無効」(null and void)となります。これは濫用的解雇(有効だが補償金対象)とは異なり、解雇自体が法的に成立しないことを意味します。保護期間が終了した後、雇用主は改めて解雇通知を出す必要があります。
| 保護事由 | 保護期間(試用期間後) |
| 妊娠・出産 | 妊娠期間全体、および出産後16週間 |
| 病気・事故による不能力 | 勤続1年目:30日間 |
| 勤続2年目~5年目:90日間 | |
| 勤続6年目以降:180日間 |
この保護期間が適用されるのは、従業員が契約上の職務を遂行できない状態(労働不能力)にある場合です。
【労働不能力の範囲に関する最新判例】
保護期間の適用範囲について、連邦最高裁判所は、その判断基準を明確化しています。2024年3月26日の連邦最高裁判所判決(Judgement 1C_595/2023)では、労働不能が「現在の職場における人間関係など特定の要因に限定されている」ケースでは、この一時的な解雇保護規定(ブロッキング期間)は適用されないと判断されました。この判決は、従業員が他の場所で職を見つける能力を保持している場合、雇用主に対して雇用関係の継続を強制する必要はないという判断を示唆しており、雇用主側のリスクを限定的に緩和する実務上の考慮事項となります。
企業が負担すべきスイスの社会保障制度と退職金規定

スイスは、国民の生活を保障するために「三本柱(Three-Pillar System)」と呼ばれる社会保障制度を採用しており、日本の公的年金制度(2階建て)よりも複雑な構造を持ちます。雇用主は、給与から法定の拠出金を控除し、これを所定の機関に納付する義務を負います。
雇用主の社会保障拠出義務と三本柱制度の構造
スイスの社会保障制度は、以下の3つの柱で構成されています。
1. 第1の柱(公的年金・保険:AHV/IV/EO)
これは国民全員に適用される公的な基礎保障であり、老齢・遺族年金(AHV)、障害保険(IV)、所得補償制度(EO)で構成されます。この制度は、生存に必要な最低限の生活を保障することを目的としています。
- 拠出率:総賃金(上限あり)の10.6%が標準的な拠出率です(AHV/IV/EO合計)。
- 負担の分割:雇用主と従業員がそれぞれ5.3%ずつ折半します。雇用主は従業員の負担分を給与から控除し、全額を補償機関に納付する義務を負います。
2. 第2の柱(企業年金:BVG/LOB)
これは職業上の給付を目的とする強制加入の企業年金制度です。第1の柱と合わせ、引退後の最終所得の約60%をカバーすることを目指します。
- 拠出率:従業員の年齢と年金基金によって変動しますが、調整後の給与(coordinated salary)に対して7〜25%程度となります。
- 負担の分割:雇用主は、保険料の最低50%以上を拠出する義務があります。
3. 第3の柱(私的年金)
これは従業員が任意で加入する私的な貯蓄・投資であり、老後の経済的なギャップを埋める役割を果たします。第3の柱は、3a(拘束型)と3b(自由型)に分かれます。特に3aは、拠出額を課税所得から控除できる大きな税制上の優遇があるため、従業員のリテンションにおいて重要な要素となります。
強制加入の失業保険(ALV)の仕組みと受給資格
失業保険(ALV:Arbeitslosenversicherung)は、スイスのすべての被雇用者(自営業者を除く)に対して強制的に加入が義務付けられています。
- 拠出率:賃金上限額(CHF 148,200)までは2.2%で、雇用主と従業員が半分ずつ(1.1%ずつ)負担します。上限を超える賃金部分には追加の拠出率が適用されます。
- 受給資格の厳格性:失業手当(Unemployment Benefit, UB)を受給するためには、過去2年間に最低12ヶ月間被雇用者として拠出を行っていることなど、厳格な要件を満たす必要があります。
- 給付水準:通常、被保険者所得の80%が給付されます(扶養家族がいる場合や障害手当を受けている場合など)。
法定退職金(長期勤務手当)の特異性
スイス法においては、日本のような勤続年数に応じて発生する一般的な法定退職金制度は存在しません。これは、退職金や離職手当を、集団労働協約や個別雇用契約における交渉に委ねるという「契約の自由」を重視するスイス法の姿勢を反映しています。
ただし、スイス債務法第339条b(OR 339b)に基づき、特定の長期勤続者に対しては「長期勤務手当(Allowance for prolonged period of employment)」を支払う義務が発生します。
- 対象者:以下の二つの要件を同時に満たす従業員に限定されます。
- 50歳以上であること
- かつ雇用主に20年以上勤務したこと。
- 金額の決定:法定で金額が定められていない場合、裁判官が裁量で決定しますが、最低2ヶ月分、最大8ヶ月分の賃金が目安とされます。裁判所は、従業員の年齢、勤続年数、給与、キャリアの見通し、企業年金への貢献度などを総合的に考慮して金額を決定します。
この法定退職金制度は適用される範囲が極めて限定的であり、進出企業は、一般的な退職金や慰労金に関する規定は、労働協約や雇用契約内で任意に定める必要があることを理解しておく必要があります。
まとめ
スイスの労働法は、進出を検討する日本企業にとって、その柔軟性と予見可能性の高さから魅力的ですが、日本の法慣行との決定的な相違点を正確に理解することが不可欠です。
第一に、スイスの労働時間は職種により週45時間または50時間と日本よりも柔軟ですが、超過勤務(Overtime)と超過労働時間(Excess Working Hours)の法的区別を理解し、契約上の通常労働時間の設定を戦略的に行う必要があります。第二に、解雇の自由が原則であるものの、濫用的解雇に対しては最大6ヶ月分の給与補償のリスクが存在し、また、妊娠中や病気・事故による不能力期間中の解雇は「無効」となるため、雇用契約の終了に関しては厳密な法的コンプライアンスが要求されます。第三に、社会保障制度は三本柱構造であり、特に第1の柱(AHV/IV/EO)と第2の柱(BVG)における雇用主の拠出義務は、人件費計算において重要な要素となります。法定退職金が長期勤続者(50歳以上かつ20年以上)に限定されている点も、日本との大きな違いです。
スイスの労働法制は、自由度が高い反面、スイス債務法(私法)と連邦労働法(公法)の二重規制、さらに連邦最高裁判所の判例が複雑に絡み合っています。日本の商慣行や法務感覚との相違点を踏まえ、進出戦略や雇用契約、人事規定を策定することは、コンプライアンス維持と事業リスク低減のために不可欠です。モノリス法律事務所では、国際的な労働法務に精通した知見を活用し、貴社のスイス進出を法的な側面からサポートいたします。
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務

































