イギリスの国家安全保障・投資法による投資規制

イギリスは、長らく外国からの投資を積極的に受け入れてきた歴史を持つ国ですが、2022年1月4日に施行された「国家安全保障・投資法(National Security and Investment Act 2021、以下「NSIA」)」により、その投資環境は大きく変貌しました。この法律は、外国からの投資を規制するという点で日本の外国為替及び外国貿易法(以下「外為法」)と共通の性格を有しますが、その規制目的、対象範囲、そして違反時の法的効果には、日本企業がイギリスでの事業展開を検討する上で見過ごせない重要な違いが存在します。
本稿では、イギリスのNSIAがどのような法律であり、日本の外為法とどのように異なるのか、そして日本企業がどのような点に注意すべきかを詳細に解説します。
この記事の目次
イギリスNSIA創設の背景
NSIAは、旧来の投資審査制度であった「2002年企業法(Enterprise Act 2002)」に代わり、国家安全保障上のリスクを審査する新たな法的枠組みとして創設されました。この法律の最も重要な特徴は、その目的が国家安全保障の保護のみに限定されている点にあります。イギリス政府は、NSIAに基づく権限を、経済的または政治的な目的のために行使することはなく、純粋に国家安全保障上の懸念がある場合にのみ介入するとしています。
この点は、日本の外為法が、国際収支の均衡維持や国民経済の健全な発展という広範な目的も有していることと対照的です。外為法が複数の目的を持つことで、投資の健全な促進と安全保障上の規制のバランスを考慮する必要が生じます。一方、NSIAは「国家安全保障」という単一の、しかも具体的な定義が意図的に避けられた柔軟な概念に焦点を絞ることで、イギリス政府は迅速かつ広範な介入を可能にしました。この柔軟な運用は、投資家にとって、予測が困難な要素となり、イギリスへの投資判断における不確実性を高める可能性を秘めていると言えるでしょう。
以下に、両法の主な違いをまとめた比較表を示します。
イギリスの国家安全保障・投資法(NSIA) | 日本の外国為替及び外国貿易法(外為法) | |
---|---|---|
法律の目的 | 国家安全保障の保護のみ | 国際収支の均衡、国民経済の健全な発展、国家安全保障 |
主な規制対象 | 国家安全保障上のリスクを伴う投資全般 | 特定の「コア業種」への対内直接投資 |
強制届出の閾値 | 株式・議決権の25%超、50%超、75%超、または「実質的な影響力」の取得 | 上場企業株式の1%以上、非上場企業の出資・議決権取得など |
知的財産権・資産の規制 | IP、ソフトウェア、機器などの有形・無形資産も対象 | 原則として対象外 |
無許可取引の法的効果 | 自動的に無効(void)となる | 無効とはならないが、罰則の対象となる |
罰則 | 高額な罰金(最大5%の全世界売上高または1,000万ポンド)や刑事罰 | 罰金・懲役 |
イギリスの規制対象となる「トリガーイベント」
NSIAでは、政府が審査・介入する権限を持つ特定の取引を「トリガーイベント」と定義しています。その範囲は多岐にわたり、従来のM&A取引だけでなく、様々な形態の投資や資産取得も対象となり得ます。
株式・議決権の取得
強制届出が必要となる主要な「トリガーイベント」として、企業の株式や議決権の取得が、以下の閾値を超える場合が挙げられます。
- 25%超の株式または議決権を取得する場合
- すでに25%超を保有している場合でも、その持分が50%超に増加する場合
- すでに50%超を保有している場合でも、その持分が75%以上に増加する場合
「実質的な影響力(Material Influence)」の取得
NSIAの適用範囲を特異なものとしているのが、この「実質的な影響力」の概念です。これは、25%未満の株式取得であっても、取引を通じて対象企業の経営方針に大きな影響を与える能力を得る場合を指します。例えば、取締役の任命権や、特定の経営方針に拒否権を持つ場合などがこれに該当します。2021年12月には、アルティス社によるBTグループ社の株式18%の取得が、この「実質的な影響力」という概念に基づいて審査対象(コールイン)となりました。
この「実質的な影響力」という概念は、日本の外為法が上場企業への株式取得について、1%という明確な数値で届出義務を規定しているのと根本的に異なります。NSIAは、より定性的な判断基準を導入しており、少額のベンチャー投資や、共同経営を行うようなプライベートエクイティ取引においても、意図せずNSIAの適用対象となる可能性を孕んでいます。このため、取引の初期段階からNSIAの適用可能性について綿密なデューデリジェンスを行うことが不可欠です。
物理的・無形資産の取得
NSIAの規制対象は株式・議決権の取得に留まりません。土地、機器、機械などの有形資産 だけでなく、知的財産権(IP)、ソフトウェア、設計図、ノウハウ、貿易秘密といった無形資産の取得も対象となり得ます。この広範な規制範囲は、NSIAが単なる企業買収の審査を超え、イギリスの基幹産業や先端技術からの技術流出を防ぐという、より深遠な目的を持っていることを明確に示しています。
NSIAの対象となり得る取引は、伝統的なM&Aに限定されません。大学との共同研究契約、特定の知的財産権のライセンス契約、または大学発ベンチャーへの投資なども、NSIAの「トリガーイベント」と見なされる可能性があります。特に、イギリスの高等教育・研究機関との連携を検討している日本企業は、この広範な規制範囲を十分に理解し、法的アドバイスを求めることが重要です。
イギリスNSIAによって強制届出が必要な17の「機微な分野」

NSIAは、政府が強制的な届出と審査を義務付ける「機微な分野」を具体的に定めています。これらの分野は、付属法令である「National Security and Investment Act 2021 (Notifiable Acquisition) (Specification of Qualifying Entities) Regulations 2021」によって詳細に定義されており、特に国家安全保障上のリスクを孕むと見なされる活動が含まれています。
これらの分野には、防衛、エネルギー、通信といった伝統的な領域に加え、AI、量子技術、合成生物学といった新興技術が重点的に含まれています。この傾向は、イギリス政府がイノベーション分野の技術流出に強い関心を持っていることを示しています。
特にAI分野では、強制届出の対象となるのは、AI技術の「研究」「開発」「生産」を行う企業であり、単に「既成のAIツールを内部プロセスで利用」するだけの企業は対象外となることが、最近の法改正の動向から分かります。この厳密な定義は、イギリス政府が、イノベーションを阻害することなく、真に国家安全保障上のリスクを孕む「中核的な技術」を捕捉しようとする、洗練されたアプローチを採用していることを示しています。
また、最近の法改正の動向では、半導体や重要鉱物(Critical Minerals)が「先端材料」から独立した分野として新設されることが検討されています。この動きは、これらの分野が国家安全保障上、単独で厳格な管理を要するほど重要性が増していることを明確に示していると言えるでしょう。
以下に、NSIAが定める17の機微な分野と、その主要な活動内容の概要をまとめます。
主要な活動内容の例 | |
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先端材料 | 先端複合材、特定金属・合金、ポリマー、セラミックス、グラフェン、半導体、フォトニクスなど |
先端ロボット工学 | 先端ロボット機器やそのコアコンポーネントの開発・生産 |
人工知能(AI) | AI技術の研究、開発、生産(「既成のAIツールの利用」は除く) |
民間原子力 | 原子力サイトや核物質に関するライセンスの保有など |
通信 | 公衆電子通信ネットワークやサービス、海底ケーブルの運用など |
コンピュータハードウェア | コンピュータ処理チップやメモリに関する知的財産権の創出・供給など |
政府への重要サプライヤー | 機密情報を取り扱う政府サプライヤーなど |
暗号認証 | 非消費者向け暗号認証の研究、開発、生産 |
データインフラ | 重要公共機関が利用するデータインフラの所有、運用、管理など |
防衛 | 政府の防衛・国家安全保障請負業者など |
エネルギー | 大規模な石油・ガス生産、発電容量の保有など |
軍事・デュアルユース | 輸出規制の対象となる軍事・民生両用品 |
量子技術 | 量子通信、量子コンピュータ、量子センサーの開発・生産など |
衛星・宇宙技術 | 衛星、ロケット、コンポーネントの製造など |
緊急サービスへのサプライヤー | 警察、救急、消防サービスへの製品・サービスの提供 |
合成生物学 | 合成生物学技術の研究、開発、生産 |
運輸 | 空港、港湾、鉄道駅などの運用 |
イギリスNSIAの手続フローとコンプライアンス上の注意点
NSIAには、強制届出義務がある「ノティフィアブル・アクイジション(Notifiable Acquisition)」と、任意で審査を求める「ボランタリー・ノーティフィケーション(Voluntary Notification)」の二つの手続きが存在します。
NSIAに基づく審査は、以下の流れで進められます。
- 初期審査(Initial Review):届出が受理されると、政府は30営業日以内に審査を完了させ、取引をクリアするか、詳細審査に進めるか、判断を下します。
- 詳細審査(Assessment Period):詳細審査に進んだ場合、さらに最長75営業日が与えられます。情報提供の遅延や当事者間の合意により、審査期間はさらに延長される可能性があります。
NSIAで特に注意すべきは、強制届出義務のない取引でも、政府が5年以内(かつ、政府が取引を認識してから6ヶ月以内)に「コールイン」権限を行使し、遡って審査を行うことが可能である点です。この「コールイン」権限により、たとえ任意届出をしなかったとしても、国家安全保障上のリスクがあると政府が判断すれば、取引が完了した後であっても法的安定性が脅かされることになります。このリスクを回避するためには、強制届出義務がなくとも、不確実性が高い取引では、任意届出を行うことが実務上推奨されるでしょう。
2022年から2023年の運用報告によると、強制届出と任意届出を合わせたレビュー件数766件のうち、約7.2%にあたる55件がコールインされ、92.8%は「これ以上アクションなし」と判断されています。コールインされた案件の多くは、防衛、軍事・デュアルユース、AI、先端材料の分野でした。買収者の国籍では中国が最も多くコールインされていますが、イギリスや米国籍の買収者も対象となっています。これらのデータは、NSIAが特定の国籍に偏ることなく、国家安全保障上のリスクを多角的に評価していることを示唆しています。
イギリスにおける無許可取引の「無効化」リスク

NSIAの最も厳格な特徴の一つは、強制届出が必要な取引を政府の承認なく実行した場合、その取引が自動的に「法的に無効(legally void)」となることです。この「無効」という効果は、当事者の意図にかかわらず、法律上、最初から効力を持たなかったことになります。イギリス議会では、より柔軟な「取り消し可能(voidable)」に変更すべきかという議論がなされたものの、最終的に厳格な「無効(void)」が維持されました。この効果は、単なる罰金や刑事罰を超え、取引の法的基盤そのものを根底から揺るがすため、日本の投資家は特にそのリスクの重大性を認識する必要があります。
NSIA違反に対するペナルティは非常に厳格です。無許可で取引を実行した場合、その取引が無効となるだけでなく、買収者には以下の厳格なペナルティが科される可能性があります。
- 高額な罰金:グループの全世界売上高の最大5%または1,000万ポンドのいずれか高い方。
- 刑事罰:責任者(取締役など)に懲役刑が科される可能性もあります。ただし、罰金と刑事罰は併科されないとされています。
例外的に、無許可で完了した取引であっても、政府が事後的に有効性を認める「事後検証(retrospective validation)」手続きが用意されています。しかし、この手続きは複雑であり、無許可取引がもたらす法的・商業的リスクを考えれば、事前に遵守することが最善策であることは明らかです。
まとめ
イギリスの国家安全保障・投資法(NSIA)は、日本の外為法と比較して、その規制目的、対象取引、そして違反時のペナルティにおいて多くの重要な相違点が存在します。NSIAが国家安全保障という単一の目的に焦点を絞ることで、知的財産権の取得や25%未満の株式取得であっても「実質的な影響力」という概念で規制対象となり得ます。そして何よりも、強制届出が必要な取引を政府の承認なく実行した場合、その取引が自動的に「法的に無効」となる厳格な効果は、日本の投資家にとって予期せぬリスクとなりうるものです。
イギリスでの投資・M&Aを成功させるためには、取引の初期段階からNSIAの適用可能性について専門家による綿密なリーガルチェックが不可欠です。私たちは、NSIAを含む複雑な国際投資規制に関する専門的なアドバイスとサポートを提供し、日本のクライアントの皆様がイギリスでの事業を安全かつ確実に展開できるよう尽力いたします。 NSIAへの対応は、単なるコンプライアンス上の義務ではなく、取引の法的安定性と将来の事業の成長を確保するための重要な戦略的課題であると認識することが重要です。この点について、ご不明な点がございましたら、お気軽にご相談ください。
関連取扱分野:国際法務・海外事業
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務