ネパールの法体系と司法制度の概要

ネパールは、2015年に公布された新憲法によって、長年の立憲君主制から「連邦民主共和制」へと、その政治体制を転換させました。この変革もあり、ネパールの法体系と司法制度は近代化が進んでいます。ただ、ネパールの法体系は、日本のような純粋な大陸法系の法体系とも、また、純粋な英米法系の法体系とも異なり、複数の法的伝統が融合した独自の法体系、いわば「ハイブリッド法体系」となっています。
本記事では、ネパールでの事業展開を検討する上で不可欠な、これらの法律の全体像とその概要について解説します。
この記事の目次
ネパール法体系の歴史的変遷
ネパールの歴史と「ハイブリッド法体系」
ネパールの法制度は、紀元前3世紀のキランタ朝にまで遡る長い歴史を有します。その発展は、ヒンドゥー哲学や宗教的文書に深く根ざしていましたが、19世紀半ば、欧米の法制度を参考に、民法・刑法・訴訟法を一体化した最初の統一法典「ムルキ・アイン」が制定されました。この成文法を基盤とする法体系は大陸法的な特徴を強く持ちつつも、植民地化を経験しなかった歴史的背景とは対照的に、隣国インドを通じて英米法(コモン・ロー)からの強い影響も受けてきました。その結果、判例法理が形成され、現在ではヒンドゥー法、大陸法、英米法の要素が複雑に絡み合い、ネパール独自の「ハイブリッド法体系」を形成していると言えます。
この「ハイブリッド法体系」は、単に複数の法的伝統が併存しているだけでなく、それぞれの要素が特定の分野で異なる形で機能している点にその特異性があります。例えば、ネパールの法律家はインドで教育を受けることが多く、その結果、コモン・ローの考え方が強く浸透しています。しかし、成文法典が大陸法的な構造を持つため、コモン・ローで訓練された法律家が成文法を解釈・運用するという、混合法域で生じるような課題が見られることがあると言われています。
具体的な例をいくつか挙げると、以下のようになります。
- 不法行為法:成文法(written law)には不法行為(tort)に関する一般的な概念が存在せず、損害賠償は通常、刑法の範囲内で扱われます。これは、英米法に特徴的な不法行為法とは異なる構造であり、ネパールの一部の法学者は、複雑なコモン・ロー的な不法行為の概念を導入するよりも、慣習法に存在する損害賠償の原則に頼るべきだと主張しています。
- 家族法:ネパールの家族法は、伝統的なヒンドゥー法に基づく規範と、現代的な権利に基づく規定が融合しています。最高裁判所の判例法では、国際的な法的基準と比較し、女性に対する文化的・伝統的な差別の問題が残っているとも言われています。裁判所は、文化を急進的に変えることなく差別をなくすための検討を求める一方で、同性愛者やトランスジェンダーに対する差別問題では、より革新的なアプローチをとるなど、その判断が揺れています。
このように、ネパールの法制度は、歴史的、文化的、そして国際的な影響が多層的に重なり合うことで、複雑で独自の進化を遂げてきました。
2015年憲法による連邦民主共和制への移行
ネパールの政治は、1990年の立憲君主制憲法を経て、2015年の現行憲法公布によって、決定的な転換点を迎えました。現行憲法は、ネパールを「独立した、不可分な、主権を有する、世俗的で、包括的で、民主的で、社会主義志向の連邦民主共和制国家」と宣言しています。
1990年憲法は「立憲君主制」を定めており、行政権は国王(His Majesty)と閣僚評議会に共同で帰属していました。これに対し、2015年憲法では、この体制が完全に廃止され、行政権は閣僚評議会のみに帰属することが明記されました。国王が最高権力を持つ君主制から、国民が選出した代表者で構成される評議会が最終的な権限を持つ「連邦民主共和制」への移行が行われました。
さらに、憲法制定プロセスそのものが革命的でした。1990年憲法を含むそれ以前の憲法は、国王や支配者によって一方的に制定されていましたが、2015年憲法は、ネパールの歴史上初めて、有権者によって選出された「制憲議会」によって制定されました。これにより、憲法の前文には「主権を有する国民の代表として、我々はこの憲法を公布する」と明記されており、国民の主権が示されています。
この憲法が掲げる「社会主義志向」という言葉は、日本の資本主義経済体制を前提とする法体系とは根本的な理念において異なると言えるでしょう。この理念は、国民の自由な事業活動の権利を保障しつつも、公共の利益や平等を重視する国家の姿勢を示していると考えられます。
「独立した、公平で有能な司法」
また、現行憲法は、「法の支配」と「独立した、公平で有能な司法」を基本原則としています。この「独立した、公平で有能な司法」が政治プロセスに影響を与える・与え得るという事例が、2015年憲法制定時に示されました。2015年6月、主要4政党は、連邦の境界画定を含む重要な事項を憲法公布後に行うという「16項目合意」を締結しました。しかし、これに対し、最高裁判所は、この合意が暫定憲法に違反するとして、境界画定を憲法に盛り込むよう命じる「滞在命令(stay order)」を発しました。裁判所は、憲法制定を急ぐために暫定憲法を無視すれば、法と秩序に悪影響を及ぼし、取り返しのつかない損失につながる可能性があると警告しました。この命令にもかかわらず、制憲議会は憲法草案の作成を進めましたが、この一連の出来事は、ネパールの司法が立法府や行政府に対して強い権限を有し、政治的なチェック・アンド・バランス機能を果たしていることの例と言えるでしょう。
ネパールの司法制度

裁判所組織の概要と特別法廷
ネパールは、最高裁判所を頂点とする一元的な司法制度を採用しており、連邦制国家でありながら司法権が一元化されている点は特徴的です。裁判所は、最高裁判所、高等裁判所(州裁判所)、地方裁判所(第一審裁判所)の三層で構成される三審制を採用しており、日本の三審制と構造上は類似しています。
各裁判所は以下のような役割を担っています。
- 最高裁判所(Supreme Court):違憲審査権、連邦と州などの間の管轄権紛争解決、上訴審理、独自の判例法理形成など、日本の最高裁判所よりも広範な権限を有します。特に、基本的人権が侵害された場合には「令状(writ)」を発行する権限を持ちます。
- 高等裁判所(High Court):地方裁判所からの上訴を扱うほか、法律で定められた特定の事件の第一審を管轄します。
- 地方裁判所(District Court):ほとんどの民事・刑事事件の第一審を管轄するほか、後述する地方レベルの準司法的機関である「司法委員会」の決定に対する上訴審理も担当します。
主要な裁判所システムに加え、ネパールには特定の専門分野を扱う特別法廷が多数存在します。これには、汚職事件を扱う特別裁判所、公務員の労務を管轄する行政裁判所、抵当権の実行を行う債権回収裁判所、そして労働法上の紛争を解決する労働裁判所などが含まれます。企業が労働問題に直面した場合、この労働裁判所の管轄となるため、その存在と機能を理解しておく必要があります。
機関名 | 役割/管轄 | 日本法との比較 |
---|---|---|
最高裁判所 | 違憲審査権、連邦/州間の紛争、上訴審理、令状発行 | 違憲審査権の積極的行使、政治的影響力 |
高等裁判所 | 地方裁判所からの上訴、一部事件の第一審 | |
地方裁判所 | ほとんどの民事・刑事事件の第一審、司法委員会の上訴 | 地方の準司法的機関の決定を審理する役割 |
司法委員会 | 憲法が定めた紛争の調停・裁定 | 日本にはない、地方自治体による準司法的機能 |
特別法廷 | 汚職、行政、労働、債権回収など専門分野の事件 | 日本の専門裁判所や審判機関に類似 |
地方レベルの司法委員会
ネパール2015年憲法第217条および地方政府運営法(Local Government Operation Act, 2074)に基づき、すべての市・村レベルの地方自治体に「司法委員会(Judicial Committee)」が設置されています。副市長または副議長が委員長を務める3名で構成され、憲法で規定された紛争の調停や裁定を行う権限が付与されています。
この司法委員会は、日本の地方自治体には存在しない、極めて特異な準司法的機関です。これは、司法サービスを国民に身近なものにしようと、司法の分権化を試みた結果であると言えます。地方レベルの紛争解決を、法律の専門家ではない地域のリーダーに委ねることで、司法へのアクセス性の向上を図る試みです。
しかし、この制度では、法律の専門知識を持たない委員が裁判権に類似する権限を持つことから、法の適用や手続きが不統一になり、法的予測可能性が低下する可能性があります。特に外国人事業者にとって、地方レベルでの小規模な紛争(例:地域住民とのトラブル、小規模な請負契約の不履行など)が、標準的な司法手続きとは異なる方法で解決されるリスクがあると考えられます。さらに、実務上、委員の間では、調停と裁定のどちらを優先すべきか、またその運用方法について混乱が生じているとも指摘されています。
ネパールでの事業活動においては、この司法委員会の存在を考慮し、調停や裁定によって予期せぬ結果とならないよう、契約内容を明確にし、紛争予防策を講じることが極めて重要となります。
ネパールの検察・弁護士制度
検察機関は、裁判所の三層構造に対応して組織されています。検察総長(Office of Attorney General)が最高検察庁を率い、州の検察庁は州検察官が、地方検察庁は地方検察官が統括します。その職務権限には、警察の捜査への指示、刑事事件の起訴決定権、公判での活動、法執行の監督、訴訟における政府代表などが含まれます。
弁護士資格の認定と登録は、1993年ネパール弁護士評議会法に基づき設立された「ネパール弁護士評議会(Nepal Bar Council)」が管轄しています。法学部卒業後、評議会の試験に合格し、研修とインターンシップを経ることで弁護士資格を得ます。弁護士には、15年以上の経験を持つ「上級弁護士」が存在します。
まとめ
このように、ネパールの法体系は、伝統的なヒンドゥー法に加えて、大陸法や英米法の要素を取り入れた複雑な「ハイブリッド法体系」です。そして、政治体制の変革と2015年憲法が、ネパールの法体系・法制度を大きく近代化しました。また、司法制度における、地方レベルの「司法委員会」は、日本にはない制度です。ネパールでの事業展開などを行う際には、こうした法体系や司法制度を理解している法律事務所等のアドバイスが不可欠だと言えるでしょう。
関連取扱分野:国際法務・海外事業
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務