スイスの法体系と司法制度を弁護士が解説

スイス連邦(以下、スイス)は、長年にわたり国際的なビジネス活動の中心地、および中立的な紛争解決の場として世界的な地位を確立してきました。しかし、その法体系は、日本の法務担当者が慣れ親しんだ統一的な国家法体系とは根本的に異なる二つの原則、すなわち「連邦制」と「大陸法典主義」に基づいて構築されています。
連邦制の下、法律は連邦、26の州(カントン)、および基礎自治体の三層で制定されており、連邦法が統一している実体法(民法典や債務法典)においては高い予測可能性が得られる一方で、州が管轄権を持つ分野、特に訴訟手続きにおいては、州ごとに異なる規則が存在する複雑さを有します。さらに、スイス民法典(ZGB)と債務法典(OR)は、日本の民法と共通のルーツを持つものの、物権変動の原則など、商取引におけるリスク管理に直結する決定的な構造的な相違点が存在します。また、最高司法機関である連邦最高裁判所(BGer)は、連邦議会が制定した法律の違憲審査権を持たないという、日本の司法制度と比較して特異な役割を担っています(連邦憲法第190条)。
本稿では、スイスでの事業展開を検討されている日本の経営者および法務部員の皆様に向けて、スイスの法体系の根幹をなすこれらの構造を詳細に解説し、特に日本法との重要な差異に焦点を当てて、実務上の留意点を明らかにします。
この記事の目次
スイス法体系の根幹をなす二つの原則:連邦制と大陸法
連邦制の構造と法源の階層性
スイスは、連邦(Confederation)と26の州(Canton)から構成される連邦国家であり、この構造が法体系全体の階層性を決定づけています。連邦憲法(SR 101)は、スイスの法的システムにおける最高の法源であり、全ての連邦、州、自治体の法令に優越します。
スイスの権限配分は「残余権限」の原則に基づいています。連邦憲法第3条は、州の主権が連邦憲法によって制限されない限り、州が全ての権利を行使することを規定しています。すなわち、連邦に明確に権限が付与されている事項(例:民事の実体法、刑法、通貨)のみが連邦の管轄であり、それ以外の事項は州が管轄権を保持します(連邦憲法第42条、第43条)。この権限分立の下で、連邦法は州法や州憲法に優越します(連邦憲法第49条)。
日本の法体系は、中央政府が包括的な権限を持ち、地方自治体が法律の範囲内で事務を遂行する制度(地方自治法)を採用しています。これと比較すると、スイスの州は、連邦に委譲されていない事項に関して、独自の憲法を有し、立法権を行使する主権的な存在です。この連邦制の原則は、特に実務的な側面で複雑さを生じさせます。例えば、民事・刑事の実体法は連邦法として統一されていますが、訴訟費用や一部の行政手続きに関する法規制は州ごとに大きく異なる可能性があり、日本の法務担当者は、どの州(裁判地)で紛争が生じるかによって異なる手続き規則に対応する必要が生じます。
スイス民法典(ZGB)と債務法典(OR)の構造
スイスの法制度は、ドイツやフランスの法体系から強い影響を受けた大陸法(シビルロー)システムに属しています。その中心をなすのが、1912年に発効したスイス民法典(ZGB:Zivilgesetzbuch)です。
ZGBは、人法、家族法、相続法、物権法といった、市民間の基本的な関係を包括的に規定しています。そして、スイス債務法典(OR:Obligationenrecht)は、このZGBの「第5部」として一体的に位置づけられています 4。ORは、契約法、不法行為法、不当利得、商事法、会社法など、債権関係に関する広範な事項を網羅しており、日本の民法典(債権編)および商法典の一部がカバーする内容を含んでいます。
ZGBとORは、その論理的な体系性と明確で理解しやすい記述スタイルから、国際的にも高く評価されています。これらの法典は、トルコやペルーの法典制定に影響を与えただけでなく、日本、韓国、台湾といった東アジア諸国の法典にもその影響が見られます。例えば、日本の民法典は1898年の制定であり、制定過程で多くの外国法典を参照しており、スイス法と同様に大陸法体系の基本的な構造を共有しています。
日本法とスイス法の構造的な相違点:契約・物権変動の原則
スイス法と日本法が大陸法体系に属し、多くの共通概念を持つ一方で、特に商取引において決定的な違いとなるのが、「物権変動」の原則です。
契約の「債権的効力のみ」の原則と物権の分離(Separation Principle)
スイス法(OR)の下では、売買契約などの債権契約は、当事者間に商品の引渡しや代金支払いの義務(債権)を生じさせるに過ぎず、契約の締結のみでは、所有権などの物権は移転しません。
物権(所有権)の移転を達成するためには、債権契約(原因行為)とは別に、当事者間の合意に基づき、実際に権利を移転させる「物権的行為」(処分行為)が要求されます。具体的には、動産であれば、買主への引渡し(占有の移転)、不動産であれば、登記が完了して初めて所有権が移転します。この原則は「分離原則(Separation Principle)」または「物権的効力の欠如(No Translative Effect)」として知られています。
これに対し、日本の民法は、当事者の意思表示(売買契約の締結)のみによって直ちに物権が移転する「意思主義」を採用しています(民法第176条)。登記や引渡しは、第三者に対する対抗要件(民法第177条)として機能しますが、当事者間においては、契約の時点で所有権が移転します。
この構造的な違いは、特に売主または買主の倒産(破産手続きの開始)リスクが生じた際に、実務上の重大な影響を及ぼします。スイス法が適用される取引において、契約を締結し代金を支払ったとしても、引渡しや登記という物権的行為が完了していなければ、買主は単なる一般債権者となり、商品の所有権を主張して確保することができません。日本の法務担当者は、スイス法人との取引において、契約締結と所有権移転の「物権的行為」の履行を厳密に管理するか、契約書に所有権留保特約を明確に設けるなど、リスクを回避するための特別な対策を講じる必要があります。
雇用契約の終了:柔軟性と日本の厳格な基準との差異
スイス債務法典(OR)は、雇用契約の終了に関しても規定を設けていますが、その基本は契約の一般原則に従います。一般的に、スイスの労働法制は、日本と比較して雇用調整(解雇)の柔軟性が高いと言われています。
一方、日本では、雇用主による雇用契約の解除(解雇)は、労働契約法第16条に基づき、「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当と認められない場合」は、解雇権の濫用として無効とされます。特に企業が経済的な理由で人員削減を行う整理解雇においては、日本の裁判所は、以下の「四要件」を満たすことを厳格に要求します 7。
- 人員削減の必要性
- 解雇回避努力義務の履行の必要性
- 人選の合理性
- 手続きの相当性
このうち、解雇回避努力義務の履行(上記2)は特に厳格であり、日本では整理解雇は「最後の手段」とみなされ、雇用主は解雇を避けるためのあらゆる手段を尽くす義務を負います。
スイス法の下では、もちろん社会的保護の要素は存在しますが、日本の判例法によって培われた、この厳格な「解雇回避努力義務」のような高度に規制的な基準は適用されません。このため、スイスで事業展開を行う企業は、日本の感覚よりも、現地のORおよび関連労働法の規定に基づき、雇用契約書や就業規則において、解雇事由と手続きを明確かつ具体的に定義し、契約ベースでの管理を徹底することが非常に重要になります。
スイス司法制度の多層構造と連邦最高裁判所の特異な役割

州裁判所と連邦裁判所の管轄権の分立
スイスの司法制度は、連邦制を反映した多層的な構造を持ちます。大部分の民事および刑事事件は、州レベルの裁判所によって管轄されます。各州には、第一審裁判所および上訴審裁判所が設置されています。
連邦レベルには、最高司法機関である連邦最高裁判所(BGer:Bundesgericht/Swiss Federal Tribunal)の他に、第一審の連轄裁判所として以下の主要な裁判所が設置されています。
- スイス連邦刑事裁判所(Swiss Federal Criminal Court):連邦の管轄に属する特定の刑事事件(例:連邦レベルの組織犯罪)を第一審として審理します。
- スイス連邦行政裁判所(Swiss Federal Administrative Court):連邦行政機関の決定に対する不服申し立てを審理します。
- スイス連邦特許裁判所(Swiss Federal Patent Court):発明特許に関する紛争を扱います。
連邦最高裁判所(BGer)は、州の最高裁判所や連邦下級裁判所の判決に対する最終審として機能します 。BGerの主要な役割は、事実関係を再検証することではなく、法的な問題に焦点を当て、連邦法の統一的な適用を確保することにあります。
違憲審査権の決定的な限定:連邦憲法第190条の原則
スイスの司法制度において、日本の法務担当者が最も構造的な違いとして認識すべき点は、連邦最高裁判所(BGer)の権限に関する制約です。
スイス連邦憲法第190条( Relevant Law/適用法規)は、以下のように定めています。
連邦最高裁判所およびその他の法適用機関は、連邦法と国際法に従う(Art. 190 Applicable Law. The Federal Supreme Court and the other authorities applying law shall follow the Federal Statutes and international law.)。
この規定の結果、BGerを含む裁判所は、連邦議会によって制定された連邦法が憲法に違反しているという理由で、その法律の適用を拒否したり、無効と宣告したりする権限を持ちません。連邦法は、憲法に適合するか否かにかかわらず、裁判所にとって拘束力を持ちます。
これに対し、日本では、憲法第81条に基づき、最高裁判所が法律、命令、規則などが憲法に適合するか否かを最終的に決定する権限を持つ「憲法の番人」としての役割を担っています。
スイスで司法審査が限定されている伝統的な理由は、その独自の直接民主制にあります。連邦議会が制定した法律は、一定数の市民が要求すれば国民投票(レファレンダム)に付され、国民自身がその法律の是非を決定します。この国民投票が、事実上の憲法審査の役割を果たしていると解釈されています。
ただし、連邦法と国際法が矛盾する場合、BGerは連邦法の適用を停止する権限を持つとされていますが、この権限行使は慎重です。実際、議会が国際法を意識的に違反して法案を起草した場合、BGerが適用停止を拒否した判例もあります(Schubert判決:BGE 99 Ib 39)。
この制約を理解することは、スイスでのロビイングや法的戦略を立てる上で決定的に重要です。連邦議会が制定した連邦レベルのビジネス法規(例:税制や独占禁止法)に対して、日本の感覚で憲法上の権利侵害を主張し、裁判を通じてその無効化を目指す戦略は、スイスでは採用できません。法制度の変更を求める場合は、立法府(連邦議会)または国民投票のプロセスに働きかける必要があります。
スイスと日本の司法における主要な相違点(連邦法に対する違憲審査権)
| 項目 | スイス連邦 | 日本国 |
| 根拠条文 | 連邦憲法第190条( Relevant Law) | 日本国憲法第81条 |
| 連邦法に対する違憲審査権 | なし。裁判所は連邦法に拘束される。 | あり。法律、命令、規則などが憲法に適合するか審査できる。 |
| 法的統一の担い手 | BGerは法解釈の統一を担当。 | 最高裁は法解釈の統一と憲法解釈を担当。 |
| 民主的コントロール | 国民投票(レファレンダム)が審査の代替機能を果たす。 | 立法府のコントロールは、選挙と再可決プロセスによる。 |
成文法中心主義と判例法形成の融合
スイスは大陸法体系に属するため、法典(ZGBやOR)が法源の中心ですが、連邦最高裁判所(BGer)は、法律に明確な規定がない「法の欠缺(けっけん)」がある場合に、判例を通じて法を形成する重要な役割を担っています。これにより、スイスの法制度は、法典の体系性を保ちつつ、個別具体的な事案や社会の変化に柔軟に対応できる、判例法主義の要素を融合させた柔軟なシステムを実現しています。
この構造から、スイス法の実務的な適用範囲を正確に把握するためには、ZGBやORの条文知識だけでなく、BGerの最新の判例(Jurisprudence)を継続的に参照し、成文法の解釈がどのように発展しているかを理解することが不可欠となります。
国際商事紛争におけるスイス法の優位性と最新動向
スイスは、政治的な中立性、確立された法の支配、そして高度な専門性により、国際的な仲裁地として世界的に高い評価を得ています。近年、スイスは国内の訴訟制度においても国際的な要求に応えるための大規模な近代化を進めています。
民事訴訟法(ZPO)改正:国際ビジネスへの適応(2025年1月)
スイスでは、連邦制の複雑さを緩和し、司法手続きの統一性を図るため、民事訴訟法典(ZPO:Zivilprozessordnung)が連邦法として制定されていますが、各州が依然として独自の規則を持つ分野が残されていました。このZPOが2025年1月1日に改正され、手続きの簡素化、迅速化、およびコスト効率の改善が図られました。
今回の改正で特に国際ビジネスにとって重要となるのが、以下の点です。
- 国際商事裁判所の設立:改正ZPOは、各州が国際商事裁判所(International Commercial Courts)を設立する可能性を認めました。
- 訴訟言語の英語化:国際商事裁判所の設立に伴い、国際的な商業紛争においては、訴訟手続きの言語として英語を使用することが許可される見込みです。
- 訴訟費用の制限:訴訟を提起する側が事前に支払うべき訴訟費用の前払金(Advance on Costs)が、原則として、推定される裁判費用の半分までに制限されることになりました。
これらの改正は、スイスが国際仲裁における中立性と効率性の強みを、国内の国際商事訴訟にも拡張しようとする明確な意思を示しています。特に英語での手続きが可能になることは、コモンロー(英米法)を準拠法とする契約であっても、スイスの裁判所を紛争解決地として選択する際の利便性を大幅に高めます。
連邦最高裁判所による国際仲裁判例の分析
BGerは、国際商事仲裁に関する判例を通じて、その親仲裁的な姿勢と実務重視の態度を明確に示しています。
執行要件の非形式主義の原則
BGerは、国際仲裁判断の承認・執行に関して、国際的な商業取引の現実を重視する柔軟な解釈を採用しています。
例えば、仲裁判断の承認と執行に関するニューヨーク条約第IV条(1)(b)は、「仲裁合意の原本又は認証謄本」の提出を要求しています。この要件について、スイス連邦最高裁判所は、2011年10月10日の判決(事件番号 5A_427/2011)において、条約の規定を過度に形式的に解釈すべきではないと判断しました。この事件では、仲裁合意が記載されたプロフォーマインボイスの原本ではなく、FAXで送信されたコピーが提出されましたが、相手方当事者がその真正性を争わなかったため、BGerは執行を認めました 14。
この判例は、BGerが技術的な手続要件よりも、国際商取引の迅速な解決と、仲裁判断の実効的な執行可能性を優先するという、スイス法の根本的な考え方を体現しています。
司法執行請求の明確性の要求
一方、BGerは、手続きの簡素化と同時に、裁判所に対する請求内容の明確性には厳格な基準を適用します。
スイス連邦最高裁判所は、2025年4月22日の判決(事件番号 4A_666/2024)において、契約上の監査権(Audit Right)の司法執行を求める場合であっても、裁判所への請求は、正確かつ限定的に構成されなければならないと強調しました。裁判所は、曖昧な、あるいは広範な情報開示を求める請求を、証拠収集のための「釣り行為」(Fishing Expeditions)と見なして却下する可能性が高いことを示唆しました。
この判例から言えるのは、ライセンサーが監査権の執行を求める際には、検査対象とする文書、期間、範囲を明確に特定し、それが契約上の義務に関連していることを立証しなければならないということです 15。これは、日本の民事訴訟における証拠収集の手続きとは異なる厳密なアプローチであり、スイスでの訴訟活動を行う際には、緻密な事実認定と請求内容の限定が求められます。
まとめ:スイス法制度が提供するビジネス上の機会とリスク
スイス連邦の法体系は、連邦制の複雑性と大陸法典の体系的信頼性が融合した独特なものです。日本の企業がこの国で事業を展開し、法的紛争に直面する際には、以下の要点に留意することが成功の鍵となります。
スイス民法典(ZGB)および債務法典(OR)は、国際取引の準拠法として信頼されていますが、物権変動における「債権的効力のみ」の原則(分離原則)は、日本の「意思主義」とは根本的に異なり、所有権移転の確実性を担保するための契約上の工夫が不可欠です。
また、司法制度においては、連邦最高裁判所(BGer)が連邦法の統一的適用を担う一方で、連邦法に対する違憲審査権を持たないという連邦憲法第190条の制約は、日本の法務戦略とは異なる、立法府を通じた対応の必要性を示しています。しかし、BGerは国際商事仲裁の執行において、非形式的かつ実務的な姿勢を示し、スイスが中立的かつ高度に発達した紛争解決地であることを裏付けています。
さらに、2025年1月施行の民事訴訟法改正は、国際商事裁判所の設立や英語での訴訟手続きの可能性を開き、スイスの司法インフラが国際ビジネスの要求に積極的に応えようとする明確な証左です。この構造的な複雑さを深く理解することは、スイスでの事業展開を成功させるための重要なリスクマネジメントとなります。
モノリス法律事務所は、こうしたスイス法制度の構造的特徴と、日本法との実務的な差異を深く理解し、お客様のスイスでの事業展開や国際紛争解決を強力にサポートいたします。
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務

































