タイにおける紛争解決を弁護士が解説

タイ王国(以下、タイ)においてビジネスの展開を検討している、あるいはすでに進出を果たしている日本企業の経営者や法務担当者にとって、現地の法制度や紛争解決の仕組みを正確に理解することは、事業の安定的な継続とリスクマネジメントの観点から極めて重要です。東南アジアの経済的ハブとして多くの日系企業が進出するタイですが、その法制や司法制度は日本のシステムとは異なる独自の発展を遂げており、予期せぬ法的トラブルに直面するリスクが常に存在します。
タイにおける主要な紛争解決手段は、三審制をとる裁判所での民事訴訟と、仲裁や調停などの代替的紛争解決手続(ADR)に大別されます。タイの裁判所は和解を積極的に促す傾向が強く、判決に至るまでに数年単位の長い時間を要することが少なくありません。そのため、迅速かつ専門的な解決を図るためには、契約締結段階からタイ国内の裁判管轄や仲裁条項を定めておくことが賢明な実務対応となります。
また、労働紛争においては、労働保護法に基づく行政の強い関与や、和解を重視する労働専門の裁判所による迅速な解決が図られるという特有の仕組みが存在します。さらに実務上特に注意すべき点として、民事保全手続の困難性が挙げられます。日本の実務とは異なり、資産の仮差押えは訴訟提起と同時か事後にしか認められないことが多く、手続の過程で相手方に資産を隠匿されるリスクが高いという構造的な課題があります。
加えて、タイではこれまで小切手の不渡りに対して刑事罰が科されることで強力な事実上の債権回収手段として機能してきましたが、現在この刑事罰を廃止する法改正が進んでおり、将来的には日本よりも売掛金回収などのリスクが高まる可能性があります。そして、日本の裁判所で得た勝訴判決をタイで直接執行することはできず、改めてタイで裁判や仲裁を行う必要があるという点も、国際取引における重大な留意事項です。
本記事では、タイにおける紛争解決手続の全体像とその実務的な留意点について、日本法との比較を交えながら詳細に解説します。日本法との実務的な差異を深く理解し、適切な予防法務と有事の際の最適な紛争解決戦略の構築に役立てていただければ幸いです。
この記事の目次
タイにおける民事訴訟手続の基本構造と日本法との実務的差異
法廷言語の厳格な制限と三審制の基本原則
タイにおける民事訴訟は、第一審裁判所、控訴裁判所、最高裁判所の三審制を採用しており、司法手続は厳格にタイの民事訴訟法(Civil Procedure Code)に準拠して行われます。日本の民事訴訟と同様に事実審と法律審が分かれていますが、実務上最も留意すべき初期段階の障壁は、法廷で使用される言語の厳格な制限です。タイの法廷では、手続きのすべてが原則としてタイ語で行われます。これは、法廷での弁論や証人尋問における発言のみならず、裁判所に提出されるすべての証拠書類にも適用されます。
したがって、英語や日本語で作成された契約書、電子メールの履歴、社内稟議書、技術資料などを証拠として提出する場合には、公認翻訳者等による正確なタイ語への翻訳文書を添付することが義務付けられています。この言語規則は、日本の当事者にとって、証拠準備のための多大な時間的および金銭的コストを発生させる要因となります。日本国内の訴訟においても外国語書面には訳文の添付が必要ですが、タイにおける国際的商事紛争では証拠の大部分が外国語で作成されていることが多く、翻訳の負担は日本国内での訴訟をはるかに凌駕します。
答弁書提出期限の極端な短さとデフォルト(欠席)リスク
日本の民事訴訟手続においては、訴状が送達された後、裁判所が第1回口頭弁論期日を通常1ヶ月から1ヶ月半後に指定し、被告はその期日の直前(実務上は1週間前程度)までに答弁書を提出することが一般的です。また、初回は擬制陳述が認められるため、実質的な反論は第2回期日以降に行うという緩やかなスケジュール感が許容されています。しかし、タイの民事訴訟法第177条の規定によれば、被告は適法な呼出状および訴状の送達を受けた日から、原則としてわずか15日以内に答弁書(Statement of Defense)を提出しなければならないと厳格に定められています。
この「15日」という期間は、国際的なビジネス紛争において極めて重大な実務的ハードルとなります。特に被告が日本に本社を置く企業である場合、タイ国内で送達された訴状の内容を翻訳して日本の本社で理解し、現地の弁護士を選任して防御方針を決定し、法的根拠に基づいた反論をタイ語で答弁書として作成し提出するという一連の複雑な作業を、わずか約2週間で完了させなければなりません。仮にこの期限内に答弁書を提出しなかった場合、原告の申立てにより被告はデフォルト(欠席)とみなされます。被告がデフォルトと宣言された場合、手続において自己を防御する機会を失い、裁判は専ら原告の主張と証拠のみに基づいて進行し、そのまま敗訴判決が下されるという極めて高いリスクが生じます。さらに、反訴(Counterclaim)を提起する場合も、この答弁書と同一の書面内に記載して15日以内に提出することが求められます。
証拠開示手続の独自のルールと和解の強行的な推奨
証拠の収集と開示に関しても、タイの民事訴訟は独自の手続を採用しています。アメリカ合衆国のような広範で強制的な証拠開示手続(ディスカバリー)は存在しませんが、タイ民事訴訟法第222/21条等に基づき、当事者は証拠調べ(事実審理)の期日の少なくとも7日前までに、法廷で提出する予定の証人および書証の網羅的なリストを裁判所および相手方に提出しなければなりません。このリストに記載されていない証拠は、原則として法廷での提出が認められないため、事前の綿密な証拠整理が不可欠です。また、相手方が所持する特定の文書については、裁判所に対して提出命令(Subpoena)を申し立てることが可能ですが、探索的な要求(フィッシング・エクスペディション)は禁止されており、文書の存在と重要性を具体的に特定する必要があります。
さらに、タイの裁判所は、当事者間での合意による解決を強く推奨する傾向があります。手続の初期段階において、裁判所はほぼ例外なく調停セッションをスケジュールし、本格的な事実審理に入る前に和解に達するよう当事者を説得します。この和解重視の姿勢は紛争の早期解決に寄与する側面がある一方で、当事者間の対立が激しく和解が成立しない事案においては、証拠調べや判決の言い渡しまでに数年の歳月を要することも珍しくありません。このような訴訟手続の長期化や言語障壁、厳格な手続要件による初期対応の負担を総合的に考慮すると、タイの国内裁判所での民事訴訟は、日本企業にとって必ずしも最適な紛争解決手段とは言えない場面が多く存在します。
タイにおける民事訴訟手続の詳細な要件や実務上の留意点に関する包括的な解説は、現地の法律実務を扱う専門サイト等で確認することができます。
タイにおける代替的紛争解決手続(ADR)の戦略的優位性と活用法

仲裁法の基本法理とUNCITRALモデル法の採用
前述の通り、タイの民事訴訟は時間的コストや言語的制約の面で大きな課題を抱えています。そのため、タイにおける国際的な商取引契約においては、代替的紛争解決手続(ADR)、特に仲裁(Arbitration)を利用することが強く推奨されます。タイの仲裁手続は、UNCITRAL(国連国際商取引法委員会)モデル法に準拠して制定された「仏暦2545年(2002年)仲裁法(Arbitration Act B.E. 2545)」によって規律されています。この法律は国際的な標準に沿った設計となっており、外国人投資家や外国企業に対しても予測可能性の高い法環境を提供しています。
同法第17条から第23条にかけては、仲裁廷の構成や権限について詳細に規定されています。仲裁廷は奇数の仲裁人で構成されることが義務付けられており、当事者の合意がない限り、法律に定められた手順で仲裁人が選任されます。特筆すべきは第23条の規定であり、当事者間に別段の合意がない限り、仲裁廷は自らが適切と考えるいかなる方法によっても手続を進行する権限を有し、証拠の許容性や証明力を自由に評価することができるとされています。これにより、厳格な民事訴訟法の手続に縛られない、柔軟かつ事案の実態に即した迅速な審理が可能となります。
日本企業にとってのADRの圧倒的なメリット
仲裁をはじめとするADR手続を紛争解決手段として選択することには、通常の民事訴訟と比較して数多くの決定的な利点があります。
第一に、高度な専門知識を有する仲裁人を選任できる点です。建設工事の瑕疵、複雑な金融派生商品の取引、高度な技術を伴う知的財産権の侵害など、専門性が要求される分野において、裁判所のランダムな割り当てによる裁判官ではなく、その分野の第一人者を当事者自らが仲裁人として指名できることは、妥当かつ合理的な結論を導き出すために不可欠です。
第二に、手続の非公開性と厳格な秘密保持の確保です。法廷で行われる公開の裁判とは異なり、仲裁手続は密室で行われ、提出された証拠や主張内容、判断の結果が外部に漏れることはありません。これは、企業の重要な営業秘密の流出を防ぎ、レピュテーションリスク(風評被害)を最小限に抑える観点から極めて有効な手段となります。
第三に、使用言語の柔軟な選択が可能な点です。当事者間の合意により、手続言語を英語などに設定することが可能です。これにより、膨大な証拠書類をすべてタイ語に翻訳するという莫大なコストと時間を節約でき、日本側の担当者も手続の進行を直接的に把握しやすくなります。
| 比較項目 | タイでの裁判所による民事訴訟 | タイを仲裁地とする仲裁(ADR) |
| 使用言語 | 原則としてタイ語のみに厳格に制限 | 当事者の合意により自由に設定可能(英語等) |
| 判断者の選任 | 裁判所により裁判官がランダムに割り当て | 当事者が専門知識を有する仲裁人を選任可能 |
| 手続の公開性 | 原則として公開(傍聴可能) | 完全非公開(厳格な秘密保持が担保される) |
| 手続規則の柔軟性 | タイ民事訴訟法等の厳格な手続法に服する | 当事者の合意や仲裁機関の規則による柔軟な進行 |
| 判断の執行力 | 外国での執行には大きな障壁がある | ニューヨーク条約に基づく国際的な執行が容易 |
契約締結段階における仲裁条項と管轄合意の不可欠性
タイの代表的な仲裁機関として、タイ司法裁判所事務総局が運営するタイ仲裁機関(TAI)や、タイ仲裁センター(THAC)が活発に機能しています。有事の際にこれらの仲裁手続を円滑に利用し、迅速な解決を図るためには、紛争が発生した後に事後的な合意に期待するのではなく、契約締結時の基本契約書や個別の取引約款の中に、明確で一義的な「仲裁条項(Arbitration Clause)」を定めておくことが実務上極めて重要です。仲裁条項には、適用される仲裁規則、仲裁地、仲裁人の数、使用言語などを具体的に明記する必要があります。
また、ADR以外の手段を選択するやむを得ない事情がある場合であっても、タイ国内のどの裁判所を専属的合意管轄とするかについて契約書に明記しておくことが、無用な管轄争いを防ぎ、円滑な初期対応を可能にするための基本戦略となります。タイの仲裁法の公式テキストおよび法解釈に関する資料は、以下のウェブサイト等で確認することができます。
参考:タイ王国 仲裁法(仏暦2545年/2002年)英訳テキスト
タイにおける労働紛争の特殊性と労働専門裁判所による迅速な解決
労働保護法に基づく行政機関の強力な介入
タイにおける労働関係の規律は、主に労働保護法(Labour Protection Act B.E. 2541)および民商法典によってなされています。タイの労働法制の根底には、使用者と労働者の間に存在する構造的な力の不均衡を是正するため、労働者の権利保護を非常に手厚くするという明確な基本理念が存在します。この保護主義的な傾向は、紛争発生時の行政機関の対応に如実に表れています。
特に、労働関係の終了(解雇等)や未払い賃金、法定退職金(Severance Pay)の支払いに関する紛争においては、タイ労働省(Ministry of Labor)および労働保護福祉局の担当官(労働監督官等)が強力な権限を持って介入します。日本の労働基準監督署も労働基準法違反に対して指導を行いますが、タイの行政機関は紛争の初期段階から当事者間に割って入り、関係法令に基づく強行的な是正命令を出すなど、実質的な紛争解決機関として極めて強いプレッシャーを使用者側にかけてきます。使用者がこの行政命令に従わない場合、直ちに労働裁判所への提訴や、場合によっては刑事罰の対象となるリスクがあります。
労働裁判所の合議体構成と職権探知主義の採用
労働法制に関する法的紛争が司法の場に持ち込まれる場合、一般の民事裁判所ではなく、特別裁判所である「労働裁判所(Labor Court)」の専属管轄となります。労働裁判所の設立と手続は、「仏暦2522年(1979年)労働裁判所設立および手続法(Act on the Establishment of and Procedure for Labor Court B.E. 2522)」によって独自に規定されており、一般の民事訴訟よりも迅速かつ経済的に、そして公平に紛争を解決することを目的として設計されています。
労働裁判所の最大の特徴は、その合議体の構成と審理の方式にあります。審理は、職業裁判官のみで行われるのではなく、裁判官に加えて、使用者側の代表と労働者側の代表が同数参加する三者構成の合議体(Associate Judges)によって行われます。これにより、実社会の労働慣行や労使双方の実情が判決に適切に反映される仕組みとなっています。さらに、労働裁判所は一般民事訴訟における当事者主義とは異なり、職権探知主義(Inquisitorial system)に近い積極的なアプローチをとります。裁判所自身が事案の真相を解明するために積極的に証拠を収集し、証人に対する尋問も主として裁判官が主導して行う権限を有しています。当事者や弁護士が証人に質問できるのは、裁判所の許可を得た場合に限られます。
また、労働裁判所においては和解の成立が極めて強く推進されます。同法第38条等の規定に基づき、裁判所は審理の第一段階において当事者に対して和解に向けた調停セッションを義務付け、労使関係の修復や金銭的な妥協による早期解決を強力に促します。日本の労働審判制度と類似する側面もありますが、タイの労働裁判所はより強権的かつ直接的に和解案の提示と受諾を迫る傾向にあります。
判例から見る不当解雇と名誉毀損の判断基準と厳格化する使用者責任
タイの労働裁判実務において、使用者が労働者を即時解雇(法定退職金の支払いなしでの懲戒解雇)するためには、労働保護法に明記された重大な義務違反が存在することを客観的に立証しなければなりません。この解雇事由の該当性については労働者保護の観点から厳格に解釈されますが、職場の秩序を著しく乱す悪質な行為については解雇が適法と認められます。
具体的な判断事例として、最高裁判所判決第19565/2557号(2014年)が実務上よく参照されます。この事案は、労働者(原告)が自らの上司に向けて唾を吐き、「かつてのように誠実な人間ではなく、無礼な人間である」といった内容の誹謗中傷を公然と行ったことを理由に、使用者(被告)が解雇を行ったケースです。原告はこれを不当解雇であるとして労働裁判所に提訴しました。最高裁判所は、原告の言動が就業規則に対する極めて重大な違反そのものとまでは直ちには言えないとしつつも、上司を不名誉な人物であると侮辱し名誉を毀損する行為であり、明白な就業規則違反を構成することから、使用者による解雇措置には合理的な理由があると判断し、使用者の処分を適法と認めました。この判例から、社内の規律維持や指揮命令系統を著しく害する背信行為に対しては、裁判所も使用者の厳格な処分を支持するということが言えるでしょう。
一方で、使用者が法定の義務を怠った場合の責任追及は近年さらに厳格化しています。2025年8月に判決が下された労働に関する画期的な最高裁判所判例では、約800名の労働者を解雇予告手当や法定退職金(総額約2億2000万バーツ)を支払うことなく解雇した企業の経営幹部に対し、労働監督官の支払命令に従わなかったとして、刑事罰として実刑判決が下されました。このような事例からも、タイにおいて労働法規を軽視したリストラや解雇を行うことは、企業に対する民事上の損害賠償だけでなく、経営トップ個人の身体的拘束という深刻な刑事リスクに直結することが明らかです。この最高裁判決や労働法制に関する詳細な実務解説は、以下のウェブサイトで確認することができます。
タイの民事保全手続(仮差押え)の著しい困難性と資産隠匿リスク

日本の民事保全法との決定的な要件の違い
ビジネス上の紛争において、相手方が財産を隠匿したり散逸させたりすることを防ぐため、訴訟の提起前や審理中に相手方の銀行口座や不動産、第三者に対する売掛債権などを暫定的に差し押さえる手続(保全手続)は、最終的な債権回収の実効性を確保する上で最も重要なプロセスの一つです。日本の民事保全法の下では、本案訴訟を提起する前に、債権の存在と保全の必要性を一応確からしいと示す(疎明する)だけで、比較的容易かつ相手方に知られることなく(密行性をもって)仮差押え命令を得ることが実務上広く行われています。これにより、相手方の不意を突いて資産を凍結し、有利な条件での和解交渉に持ち込むことが可能です。
しかしながら、タイの民事訴訟法における保全手続(Provisional Measures before Judgment)は、日本の実務とは根本的に異なり、その発令には極めて高いハードルが設けられています。タイ民事訴訟法第254条および第255条によれば、原告が仮差押え等の保全処分を求める場合、単に債権が存在し、将来の強制執行が困難になる恐れがあるという一般的な懸念を主張するだけでは全く足りません。裁判所が保全命令を発令するためには、「被告が、裁判所による強制執行を意図的に遅延させまたは妨害する目的、あるいは原告に不当な不利益を与える目的で、係争財産または自己の財産の全部または一部を裁判所の管轄外に持ち出す明確な意図を有していること、または当該財産を不当に移転、売却、処分する意図を有していること」を、客観的かつ具体的な証拠に基づき立証し、裁判所を強く納得させなければならないと厳格に規定されています。単なる業績悪化による資金繰りの悪化といった理由では、保全命令は認められません。
訴訟提起との同時性要件がもたらす実務的課題
さらに実務上の決定的な障壁として、タイにおける保全処分の申立ては、本案訴訟の訴状提出と同時、あるいは訴訟継続中にのみ行うことが原則とされています。すなわち、日本のように訴えを提起する前の完全な不意打ちとして仮差押えを行うことが、制度上および実務上非常に困難な構造となっています。訴状を提出し、それが被告に送達された時点で相手方に訴訟の存在が知られることとなり、裁判所が厳格な要件を審査している間に、相手方に資産を隠避する時間を事実上与えてしまうことになりかねません。
また、タイの裁判所は、保全命令の発令によって被告の事業活動に回復困難な損害を与えることを強く警戒しており、仮に要件を満たすと判断された場合であっても、原告に対して高額な担保の提供を命じることが一般的です。したがって、タイにおける商取引においては、事後的な仮差押え手続に過度に依存する債権回収モデルは破綻するリスクが高く、取引開始時における十分な物的担保の取得、親会社保証の徴求、あるいは信用状(L/C)取引の活用など、事前予防的な与信管理と債権保全策が日本国内の取引以上に強く求められるということが言えるでしょう。
これら保全手続に関する法令と実務上の制約の詳細については、以下のウェブサイト等で確認することができます。
参考:タイにおける暫定措置(保全手続)の執行に関する要件や実務上の留意点
タイにおける小切手不渡りの非犯罪化(法改正)がもたらす影響
タイにおける小切手決済の歴史的背景と刑事罰の威嚇力
タイにおける独特の決済慣行と紛争解決メカニズムとして、長年にわたり「仏暦2534年(1991年)小切手使用に関する犯罪法(Act on Offences Relating to the Use of Cheques B.E. 2534)」が極めて重要な役割を果たしてきました。この法律の下では、適法かつ実在する債務の支払いとして振り出した小切手が不渡りとなった場合、単なる民事上の債務不履行にとどまらず、振出人には6万バーツ以下の罰金や1年以下の禁錮刑という厳しい刑事罰が科される可能性がありました。
日本では小切手が2回不渡りとなった場合、銀行取引停止処分という事実上の企業の倒産を意味する極めて強力な経済的制裁が全国銀行協会ルールの下で機能しています。しかし、タイにおいてはこのような銀行による一律の取引停止制度が存在しません。その代わりとして、この小切手犯罪法に基づく「刑事罰の威嚇」が小切手決済の信用を担保し、債権者にとっては「刑事告訴をちらつかせることで、相手方に優先的に支払いを強要できる」という強力な債権回収のプレッシャーとして実務上広く活用されてきました。
刑事罰廃止法案の成立と今後のビジネス環境の変化
しかし、現在この法制度はタイの司法史上における根本的な転換点を迎えています。2023年11月、タイ王国内閣はこの小切手犯罪法を完全に廃止する法案(Repeal Bill)を承認しました。この廃止の法的根拠および背景には、タイ王国憲法第77条の「刑事罰は真に重大な犯罪にのみ科されるべきである」という原則の徹底と、「単に契約上の民事的な義務を履行できないことを理由に市民が投獄されるべきではない」と規定する市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR)第11条の国際的理念の遵守があります。この廃止法案は議会での手続を経ており、2025年から2026年頃にかけて正式に施行されることが見込まれています。
この法改正が実現し施行された場合、タイ刑法第341条に違反するような明確な詐欺的意図(最初から支払う意思がないにもかかわらず小切手を手渡して財物を詐取する等)がある場合を除き、単なる資金繰りの悪化や資金不足による小切手の不渡りは完全に非犯罪化され、純粋な民事上の債務不履行問題へと移行します。さらに、すでに服役中の者は釈放され、進行中の刑事手続は棄却されるという遡及的な救済措置も盛り込まれています。
これは、タイでビジネスを行う日本企業に対して、従来の「とりあえず小切手を受け取っておけば、いざという時に警察を通じて刑事責任を追及できるため確実に回収できる」という長年培われてきた実務慣行が全く通用しなくなることを意味します。将来的には、タイにおける売掛金回収の難易度は、銀行取引停止制度がある日本以上に高まる可能性が極めて高くなります。日本企業は、既存の取引先に対する与信枠の厳格な再評価、前払い比率の引き上げ、新たな担保権の設定など、抜本的な信用管理体制と回収フローの見直しを急務として進める必要があります。
この小切手法の廃止法案の現状と想定されるビジネスへの影響に関する実務的見解は、以下のウェブサイト等で確認することができます。
外国判決の承認・執行におけるタイの法的な壁と再訴の必要性

日本の裁判所の判決がタイで直接執行できない理由
日本企業がタイ企業との間で契約違反等の紛争を抱えた場合、契約書で日本の裁判所を管轄と定めていた場合や、日本法人の所在地を管轄する日本の裁判所で訴訟を提起し、苦労の末に勝訴判決(債務名義)を得ることがあります。そして、その日本の確定判決に基づいて、タイ国内にある相手方企業の工場、不動産、銀行口座などを強制執行して債権を回収したいと考えるのは、債権者として当然の流れです。
しかし、タイにおいて外国の裁判所が下した判決を直接的に承認し、直ちに強制執行を可能にする(いわゆる執行判決を付与する)ための一般的な法律は現在存在しません。また、タイは他国(日本を含む)との間で、民事判決の相互承認および執行に関する二国間条約や多国間条約を一切締結していません。(※油濁損害民事責任条約に基づく例外的な規定等を除く)。
したがって、日本の裁判所で得た勝訴判決に基づいてタイ国内の資産を差し押さえるための直接の手続(Exequatur procedure)は存在せず、当事者はタイの管轄裁判所において、元の請求原因(契約違反や不法行為等)に基づき、新たに一から民事訴訟を提起(再訴)しなければなりません。この新たなタイでの訴訟手続において、外国(日本)の確定判決は既判力を持った絶対的な決定事項として扱われるのではなく、あくまで原告の主張を裏付ける「有力な証拠の一つ」として証拠調べの対象となるにとどまります。
タイ最高裁判所判例が示す外国判決の証拠能力と3つの要件
外国判決がタイの新たな訴訟手続において「有力な証拠」として採用され、実質的にその結論が尊重されるための基準について、タイ王国最高裁判所は歴史的に重要な判例を確立しています。その基礎となっているのが、1918年の最高裁判所判決第585/2461号です。この判例およびその後の判例(最高裁判所判決第2351/2548号(2005年)等)によれば、外国判決がタイの司法手続で証拠として認められ、同一の判断を引き出すためには、以下の3つの厳格な要件をすべて満たしている必要があると判示されています。
- 管轄権の存在(Competent Jurisdiction): 判決を下した外国の裁判所が、事件の主題および当事者に対して適切な国際的および国内的管轄権を有していたこと。
- 終局性と確定性(Final and Conclusive): その外国判決が最終的なものであり、当事者を法的に拘束し、さらなる上訴等による変更の余地がない確定判決であること。
- 公序良俗に反しないこと(Public Policy / Good Morals): その外国判決の内容や手続が、タイの公の秩序または善良の風俗に違反していないこと。
実務上、特に問題となるのが第3の「公序良俗に反しないこと」という要件です。タイの裁判所において、この概念は広く解釈されるリスクがあり、例えばタイの専属管轄を侵害するような合意に基づく判決や、タイの強行法規に抵触するような外国判決の効力を否定するための抗弁として、被告側に有利に利用されやすいという懸念があります。最高裁判所判決第951/2539号(1996年)などの事例では、外国の管轄合意がタイの公序良俗に反するとされ、執行の前提となる合意自体が無効とされたケースも存在します。
これらの裁判例の傾向から、日本の裁判所で多大な時間と費用をかけて争って勝訴判決を得たとしても、それをタイ国内の相手方に対して実現するためには、再びタイの裁判所で言語の壁や長期化する手続に耐えながら二重の訴訟コストを負担しなければならないということが言えるでしょう。この点からも、国際取引においては外国判決に依存するのではなく、前述した「外国仲裁判断の承認及び執行に関する条約(ニューヨーク条約)」によってタイ国内での直接的な承認・執行が条約上担保されている「仲裁(ADR)」を選択することの戦略的優位性が、より一層明確になります。
外国判決の承認に関する最高裁判例の詳細な基準と実務的な扱いについては、以下のウェブサイト等で確認することができます。
まとめ
タイにおける紛争解決は、民事訴訟、ADR(仲裁・調停)、そして行政機構と連動した労働裁判手続という、それぞれ異なる力学を持つ制度によって構成されています。訴訟においては、極めて短い答弁書の提出期限(15日)や厳格なタイ語要件など、日本企業にとって実務的なハードルが高く、手続も和解の強行的な推奨等により数年単位で長期化しやすいという特徴があります。また、事前の債権保全(仮差押え)が制度上極めて困難であることや、これまで事実上の強力な債権回収手段として機能してきた小切手不渡りに対する刑事罰が廃止される方向にあることなど、債権回収リスクを著しく増大させる構造的な法改正が進んでいます。
さらに、日本の裁判所の判決をタイ国内で直接執行することは不可能であり、再訴を余儀なくされるため、国際取引においては万が一の事態に備え、タイの国内法に精通した上で、契約段階から的確な仲裁条項や管轄合意を設定しておくことが不可欠です。労働問題に関しても、行政機関による強い介入権限と、労働者保護の観点に立った職権探知主義的な裁判手続を理解し、現地の法解釈に基づいた就業規則の策定や厳格な人事労務管理を行うことが求められます。
こうした現地の法制や商慣行に特有の複雑なリスクを適切にコントロールし、予期せぬトラブルを未然に防ぐとともに、事業の安定と発展を確かなものにするため、モノリス法律事務所が法務面から力強くサポートいたします。タイでのビジネス展開にかかわる法的課題についてご懸念がある場合は、ぜひ一度ご相談ください。
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務

































