ロシア連邦の不動産売買契約における契約書作成の重要ポイント

ロシアの不動産取引は、日本とは根本的に異なる法制度や商慣習ゆえに、予期せぬリスクをはらむことがあります。特に重要なのが、契約の法的有効性に関わる厳格な要件と、夫婦共有財産に関する特有のルールです。
ロシア法では、不動産の売買契約は当事者の合意だけでは成立せず、書面による契約書の作成が法的要件とされています。これは、口頭の合意でも契約が成立する日本の民法とは決定的な違いであり、この要件を満たさない契約は無効と見なされます。さらに、契約締結後も所有権は自動的に移転せず、連邦国家登録・地籍・地図作成庁(Росреестр)における国家登録が完了して初めて、法的に買主のものとなります。また、不動産が婚姻中に取得された共有財産である場合、名義が一方の配偶者のみであっても、他方の配偶者の公証された同意が法律上必須となります。この同意がない場合、たとえ買主が善意であったとしても取引が無効化されるリスクがあり、近年この点をめぐる新たな法解釈や判例が示されています。
本記事では、こうしたロシア法特有の法的要件を、日本の法制度との違いを明確にしながら詳細に解説し、潜在的なリスクを回避するための実務的なポイントを提示します。
この記事の目次
ロシア不動産取引における書面主義の原則と所有権登録
契約の成立要件
ロシアの民法典(Гражданский кодекс Российской Федерации, ГК РФ)では、不動産の売買契約を締結する際に、書面による契約書の作成が必須とされています。この要件を満たさない契約は、法律上「無効(ничтожный)」とみなされます。これは、日本の民法が、契約は当事者の意思表示の合致のみで成立し、書面はあくまで契約の存在を証明する証拠にすぎないという原則とは根本的に異なります。ロシアにおいては、書面契約の存在そのものが、取引の法的有効性の前提となります。
不動産の価格についても、ロシア民法典第555条は、当事者間で書面にて価格を合意することが必須であると定めています。この価格に関する条件が欠けている場合、契約全体が「未成立(незаключенный)」とされることになります。
日本の不動産取引においては、宅地建物取引業法により書面の交付が義務付けられていますが、これは消費者保護を目的としたものであり、契約の有効性そのものとは異なる性質を持つものです。一方、ロシア法は契約の有効性自体に「書面」という形式を要求しており、その法的効力の度合いがより厳格であるということが言えるでしょう。このような根本的な法的相違点を正しく理解し、書面契約の作成に細心の注意を払うことが、ロシアでの取引リスクを正しく評価する上で重要となります。
所有権の登録と統一国家不動産登記簿(EGRN)
ロシアでは、不動産の所有権の移転は、署名された売買契約書だけでは完了しません。所有権は、連邦国家登録・地籍・地図作成庁(Росреестр)における国家登録(государственная регистрация)によって初めて買主に移転します。このプロセスの法的根拠は、連邦法第218-FZ号「不動産国家登録に関する法律」(Федеральный закон от 13.07.2015 N 218-ФЗ)にあります。
日本の法務局が管理する登記簿に相当するのが、統一国家不動産登記簿(Единый государственный реестр недвижимости, EGRN)です。EGRNには、物件の基本情報、所有権、抵当権などの制限・負担、過去の所有者履歴などが公的に記録されており、誰でもその抜粋(выписка из ЕГРН)を取得することができます。EGRNに記載された情報は、取引の安全性確保に不可欠なものとして位置づけられています。
ロシアにおける「書面主義」と「国家登録」は密接に関連した二段階のプロセスを構成しています。書面による有効な契約が法的有効性の前提であり、その契約とその他の必要書類が揃って初めて、Росреестрによる所有権登録手続きが進められます。この法的連鎖を正確に理解し、プロセスを確実に踏むことが、日本企業にとっての法的確実性を確保する上で不可欠です。
以下に、ロシア法と日本法の不動産取引における主要な相違点を比較します。
ロシア法 | 日本法 | |
---|---|---|
契約の有効性 | 書面による契約が必須。書面がなければ無効。 | 当事者の合意のみで成立。書面は慣行(宅建業法上の義務)。 |
所有権の移転 | Росрееstrへの国家登録が必須(登記で移転が完了)。 | 登記がなくても移転は完了。第三者対抗要件として登記が必要。 |
夫婦共有財産 | 婚姻中の取得財産は名義に関わらず共有と推定される。 | 原則として名義人が所有者。共有名義の場合は全員の同意が必須。 |
公証の要件 | 不動産売買は原則不要だが、夫婦共有財産の売却、未成年者・後見人関与、共有持分の売却には必須。 | 原則として任意。 |
ロシアの不動産売買契約書に不可欠な必須条項
必須条項の詳細
ロシア民法典は、不動産売買の際の契約書に含めるべき「本質的条件(существенные условия)」を明確に定めており、これらが一つでも欠けている場合、契約は「未成立」とみなされ、法的な強制力を持たなくなります。
- 契約の主題の特定:不動産を他の物件と明確に区別できる情報(住所、地籍番号、面積など)を詳細に記載する必要があります(ロシア民法典第554条)。これにより、当事者間で売買対象が何であるかについて争いが生じることを防ぎます。
- 価格の合意:不動産の価格は、書面で明確に合意されなければなりません(ロシア民法典第555条)。この条項がない場合、契約は未成立と見なされます。
- 終身居住権を持つ者のリスト:終身居住権を持つ人物がいる場合、そのリストを契約書に含めることが必須です(ロシア民法典第558条)。売主は、たとえそのような人物がいなくても、後々のトラブルを避けるために、その旨を契約書に明記して保証することが一般的です。
推奨される追加条項
これらの法律上の必須要件に加え、取引の安全性を高めるために、以下の項目を契約書に盛り込むことが強く推奨されます。日本の不動産取引においても同様の項目が重要視されますが、ロシア法ではこれらが法的有効性に関わるという点で、その重みが異なります。日本の感覚で「後から決めればよい」と考えることは、契約自体の無効という深刻なリスクを招くことになります。
- 支払い方法:現金、銀行預け入れ、エスクロー口座、公証人への預託など、支払い方法と時期を明確に定めること。
- 物件の引渡し:不動産の引渡しは、詳細な物件の状態や公共料金の負債の有無を明記した引渡証書(акт)を作成して行うこと。
- 売主の保証:第三者がその物件に対して権利を有しないこと、技術的な状態が良好であることなどを売主が保証すること。
ロシア法における不動産取引の潜在的リスク:夫婦共有財産と公証された同意

ロシア法における不動産取引の最大の潜在的リスクの一つは、夫婦共有財産の処分に関する法的要件です。これは、日本の夫婦間における不動産取引の慣習とは大きく異なるため、特に注意が必要です。
夫婦共有財産制度の理解
ロシア連邦民法典(ГК РФ)第256条および家族法典(СК РФ)第34条は、婚姻中に取得した財産(不動産を含む)は、夫婦間の婚姻契約(брачный договор)で異なる定めがない限り、夫婦の共同所有財産(совместная собственность)となることを規定しています。この原則は、登記簿上の名義が一方の配偶者のみであっても変わりません。
公証された同意の要件とリスク
夫婦共有財産を処分する取引、特に国家登録が必要な不動産の売買には、他方の配偶者の公証された同意(нотариально удостоверенное согласие)が法律上必須とされています(家族法典第35条第3項)。
この公証された同意が取得されていない場合、非同意の配偶者は、相手方(買主)がその事実を知っていたか否かに関わらず、訴訟を通じて取引を無効にすることができます。これは、通常の取引で適用される「同意の推定」の原則(相手方が非同意を知っていた場合にのみ無効化できる)とは異なり、買主が「善意の第三者」であっても救済されないという、極めて高いリスクを示しています。この無効化の訴えは、取引を知った時点から1年以内に行使される可能性があります。
日本では、不動産が夫婦の共有名義である場合、その全体を売却するには全員の同意が必要です。しかし、ロシア法では、名義が一方のみであっても夫婦共有財産と見なされる点が決定的な違いです。日本の感覚で登記簿の名義人だけを確認して取引を進めると、後から配偶者によって無効化されるリスクに直面します。
最新の法的動向と判例の役割
このようなリスクに対し、ロシア連邦最高裁判所は、過去に配偶者の同意がない取引について、買主がその事実を知っていたかどうかに関わらず無効とする判例を示すこともありました。これは、登記簿上の情報のみに依拠した善意の買主であっても、後から取引が無効化される可能性があることを示唆するものであり、取引の不安定性を高める要因となっていました。
しかし、2021年9月1日に、ロシア連邦家族法典第35条第3項に、ロシア連邦民法典第173.1条の規定を適用するという新たな法解釈が導入されました。これにより、配偶者の同意がない場合でも、買主がその同意がないことを「知っていたか、または知るべきであった」ことが証明されない限り、取引は無効化されないという原則が確立されました。この変更は、取引の安全性を大幅に向上させるものです。統一国家不動産登記簿(EGRN)に売主が単独の所有者として記載されており、買主が他に同意がないことを知るべき合理的な理由がない限り、訴訟によって取引が無効化される可能性は低くなったと言えます。
ただ、「知るべきであった」場合に取引が無効になってしまうリスクがあることには変わりがありません。不動産取引においては、EGRNの抜粋を徹底的に確認し、売主が婚姻中か否か、またその不動産が共有財産であるかどうかの確認を怠らないことが、潜在的なリスクを回避するために極めて重要となります。
ロシアにおける不動産取引の重要な公証要件と外国人投資家特有のリスク
未成年者・後見人が関与する取引
未成年者や法的能力が制限された人物が所有する不動産の処分には、公証が必須です。さらに、保護者は、事前に後見・保佐機関(органы опеки и попечительства)の許可を得る必要があります。このプロセスは、未成年者の権利が不当に害されないよう、公証人が取引の合法性をチェックする重要な役割を担うものです。この追加的なプロセスは、買主にとっての安全弁となりますが、同時に手続きの複雑性と時間を増加させることになります。
外国人投資家特有の留意点と「非友好国」リスト
外国人によるロシア国内の不動産所有は一般的に許可されていますが、連邦土地法(Земельный кодекс РФ)により、農地や国境地域の土地は外国人所有が禁止されており、賃貸のみが認められています。
また、近年の国際情勢の変化に伴い、日本を含む特定の国(ロシア政府の定める「非友好国」リストに記載されている国)の投資家は、不動産取引を含む特定の取引を行う際に、外国投資管理に関する政府委員会(Правительственная комиссия по контролю за осуществлением иностранных инвестиций)からの特別許可を取得することが義務付けられています。この許可要件は、従来の法的デューデリジェンスとは全く異なる、
地政学的リスクを取引プロセスに導入するものです。この許可プロセスは不透明であり、申請が却下される可能性も否定できません。これは、日本企業がロシアでの不動産取引を検討する上で、物件の法的健全性とは別に考慮すべき、最も重要なリスクの一つとなります。
以下は、安全な不動産取引のためにEGRN抜粋で確認すべき情報の一例です。
詳細 | 参照元・法的根拠 | |
---|---|---|
物件の基本情報 | 住所、地籍番号、面積、階数などが契約書と一致しているか。 | Федеральный закон № 218-ФЗ, Выписка из ЕГРН |
所有権の履歴 | 現在の所有者、過去の所有者、権利移転の経緯。 | Выписка из ЕГРН об основных характеристиках и зарегистрированных правах |
負担・制限の有無 | 抵当権、差押え、リース契約、賃借権など。 | Выписка из ЕГРН |
売主の法的能力 | 売主が未成年者や後見を受けている人物ではないか。 | Выписка из ЕГРН |
終身居住権者 | 売買される物件に終身居住権を持つ人物が登録されていないか。 | Выписка из ЕГРН |
まとめ
ロシアにおける不動産取引は、書面契約の必須性、所有権の国家登録、そして特に夫婦共有財産に関する公証要件など、日本とは異なる法的特性と潜在的リスクを有しています。日本の法律や商慣習の知識だけでは、こうした複雑な法的要件を正確に理解し、最新の法令変更や地政学的なリスクに対応することは極めて困難です。書面契約の不備が契約そのものの無効を招きかねない点、登記簿上の名義と実際の所有権が異なる可能性、そして配偶者の同意がないことによる訴訟リスクなど、取引の安全性を脅かす要素が随所に存在します。
当事務所は、こうした国際法務案件における豊富な経験と専門性を有しており、日本のビジネスパーソンの皆様が直面するであろう法的なリスクを未然に特定し、戦略的なアドバイスを行うことで、安全かつ確実な不動産取引の実現を支援します。統一国家不動産登記簿(EGRN)の徹底的な確認から、契約書の適切な条項作成、さらには最新の法解釈や判例を踏まえたリスク評価、そして「非友好国」リストに起因する複雑な政府委員会の特別許可申請に至るまで、取引プロセスのあらゆる段階で専門家としてのサポートを提供します。ロシアでの事業展開において、不動産取引を成功させるための信頼できるパートナーとして、我々が力強くサポートいたします。
関連取扱分野:国際法務・海外事業
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務