ベルギー王国の民法と契約書作成時に問題となる契約法

ベルギーの法制度は、長らく1804年のフランス民法典(通称「ナポレオン法典」)を基礎としていました。この法典は、当時の社会経済状況を反映したものであり、その後の2世紀にわたる社会や技術の進展に対応するには多くの点で不十分となっていました。旧民法典の不備を補うため、多くの法分野、特に債務法や不法行為責任の領域は、膨大な数の判例法の積み重ねによって形成されてきたのです。しかし、この判例法中心の法体系は、当事者にとっての法的安定性や予測可能性を損なう要因となり、法解釈の複雑さが増すという課題を抱えていました。
こうした背景から、ベルギーは民法典の全体的な改革と近代化に着手しました。その目的は、既存の判例法で確立された原則を法典に明記し、法的な空白を埋め、長年議論されてきた論争的な問題を明確化することにありました。この改革は段階的に進められ、まず2023年1月1日に民法典第1巻「総則」および第5巻「債務法」が先行して施行されました。そして、2025年1月1日には、民法典第6巻「不法行為責任」が施行されました。
この一連の法改正は、単なる既存法の整理に留まるものではありません。判例法によって補完されてきた抽象的なルールを成文法として体系化することで、ベルギーの法制度は、より透明性が高く、アクセスしやすいものへと変貌を遂げているのです。特に、外国企業との取引が多い日本の経営者や法務ご担当者の皆様にとっては、判例を個別に追う負担が軽減され、条文を参照するだけで主要な法的リスクをより迅速に把握できるようになるという大きな利点をもたらすものと評価できます。これは、ベルギーでの事業展開や取引をご検討される上で、より確実な法的基盤を提供する動きとして捉えるべきです。
本稿では、2023年施行の民法典第1巻・第5巻および2025年施行の第6巻を軸に、契約自由・成立要件・不履行時の救済、ハードシップやノックアウトルール等の新原則、交渉段階の責任・不公正条項・裁判外解除、さらに不法行為の要件明確化と請求権競合の原則化/履行補助者への直接請求化が実務とリスク配分に及ぼす影響を、日本法との相違点と対応策(契約条項・保険・体制整備)の観点から、契約書作成時の留意点として整理して解説します。
この記事の目次
ベルギー契約法の基本原則(民法典第5巻)
契約成立の要件と自由の原則
ベルギー法における契約は、当事者が法的な拘束を受ける意思を持ち、十分な合意に達すれば、原則として書面や特定の形式を要することなく成立します。この「書面を要しない」という原則は、口頭での合意も法的な効力を持つことを意味します。ただし、実務においては、その内容や存在を証明する観点から、書面での契約締結が不可欠です。さらに、特定の種類の契約、例えば不動産取引などは、その有効性を担保するために書面での作成が強制される場合があります。
ベルギーは「契約自由の原則(freedom of contract)」を堅固に擁護しており、当事者は公序良俗や強行法規に違反しない限り、契約の内容や条件を自由に設定できます。これにより、当事者の自主性が最大限に尊重され、多様なビジネスニーズに対応した柔軟な契約関係の構築が可能となっています。
契約不履行の法的救済
債務者が契約上の義務を履行しない場合、債権者は法律に基づき様々な救済措置を求めることができます。主な救済手段には、債務者に本来の義務の履行を強制する「履行の強制(specific performance)」、不履行によって生じた損害の賠償を求める「損害賠償(damages)」、そして契約関係そのものを終了させる「契約の解除(rescission or dissolution)」があります。
旧法の下では、契約の解除には原則として裁判所の命令が必要とされ、当事者が自ら契約を終了させることは困難でした。
民法典第5巻の主要な改正点(2023年1月1日施行)
その他、民法典第5巻は、旧法時代の判例や法理を成文法として明確化し、現代のビジネス環境に適合させることを目的として、いくつかの重要な変更を導入しました。
- 「予見不可能性(Hardship)」の法理の明文化:契約締結時には予見できなかった、不可抗力ではない事態(例:パンデミックや紛争)により、一方の当事者にとって契約の履行が著しく困難になった場合、その当事者は契約の再交渉を求める権利を持つことになりました。交渉が不調に終わった場合、当事者は裁判所に契約内容の修正または契約の終了を申し立てることができます。この法理は、ナポレオン法典の厳格な「契約は法なり(pacta sunt servanda)」の原則に、現代の不確実なビジネス環境に合わせた柔軟性を加えるものです。ただし、当事者は契約において、この予見不可能性の法理の適用を明示的に排除することも可能です。
- ノックアウトルール(Knock-out Rule)の導入:当事者双方が自社の一般取引条件(約款)を提示し、その内容に矛盾がある場合(いわゆる「戦いの規則(battle of the forms)」)、新法では、矛盾する条項は双方ともに無効となり、その空白部分は民法の一般原則によって補充されます。この明確なルールは、約款の適用をめぐる法的紛争に一定の結論をもたらします。
- 交渉段階の責任(契約締結上の過失)の明文化:交渉が正当な理由なく不当に中断され、相手方に損害を与えた場合、過失を犯した当事者は損害賠償責任を負う可能性があります。この損害には、デューデリジェンス費用や契約書作成費用などの実費に加え、契約が成立するという正当な期待があった場合に得られたであろう逸失利益も含まれうるといえます。
- 不公正条項(Unfair Terms)に関する一般原則の適用拡大:ベルギーの経済法典(CDE)には、消費者・企業間(B2C)および特定の企業間(B2B)取引における不公正条項の禁止規定が存在しますが、新民法典第5巻は、交渉が不可能であった条項のうち、当事者間の権利と義務に著しい不均衡をもたらすものを無効(unwritten)とみなす一般原則を導入しました。これは、経済法典の適用範囲外の契約にも、不公正条項の禁止を広げることを意味します。
- 裁判外での契約解除・無効化の可能性:債務不履行の場合、債権者は裁判所の介入なしに、一方的な通知によって契約の無効化または解除を通知することが可能になりました。これにより、迅速な紛争解決が可能となり、裁判所の負担軽減にも寄与します。ただし、この通知の正当性は、後に紛争が生じた場合に裁判所で争われることになります。
ベルギー不法行為責任の抜本的改革(民法典第6巻)

不法行為責任の三要件の明確化
ベルギー民法典第6巻は、不法行為責任の成立要件として、旧法と同様に「過失(fault)」「損害(damage)」「因果関係(causality)」の3つを規定しています。しかし、新法ではこれらの概念がより現代化され、具体的な判断基準が示されました。
- 過失(Fault):旧法で用いられていた抽象的な「善良なる管理者の注意義務」という概念は、新法ではより具体的なものに置き換えられました。過失は、「特定の行動を義務付けるか禁止する法規範の違反」、または「合理的にかつ慎重な人物が、同じ外部的状況下でとるであろう行動と矛盾する行動」と定義されています。裁判所は、過失の判断にあたり、「科学的知見の状態」「予防措置のコストと実現可能性」「行為の合理的に予見可能な結果」といった具体的な基準を考慮するようになりました。過失の軽重にかかわらず、最も軽微な過失であっても損害賠償義務を生じさせます。
- 損害(Damage):新法は「損害」の概念を明文化し、法的に保護される利益の侵害に起因する悪影響と定義しました。財産的損害と非財産的損害、そして「間接損害(dommage par ricochet)」も明確に定義されています。特に、被害者が差し迫った損害や損害の悪化を防ぐためにとった措置の費用は、たとえその措置が成功しなかったとしても、加害者に請求できるようになりました。
- 因果関係(Causality):新法は、損害と過失の間の因果関係が「あまりにも希薄である」と判断される場合、裁判官が請求を却下できるという柔軟な規定を導入しました。また、「機会の喪失(loss of opportunity)」に対する損害賠償を比例的な因果関係で認め、因果関係が不確実な場合でも、過失が損害を引き起こした確率に基づいて部分的な賠償を認めるとしています。複数の原因が損害を引き起こした可能性がある場合、正確な原因が特定できなくても、複数の当事者が比例的に責任を負う可能性があります。
「競合禁止」から「競合原則」へ
民法典第6巻の施行は、ベルギーの不法行為責任に根本的な変化をもたらすものであり、特に以下の二つの点が実務に大きな影響を与えます。まず、契約責任と不法行為責任の「競合禁止」から「競合原則」への変化です。
旧ベルギー法では、契約当事者間に契約関係が存在する場合、契約違反に起因する損害に対しては、原則として不法行為責任を追及することは認められていませんでした。これは、当事者が契約を締結した時点で、不法行為による請求権を事実上放棄したと見なす考え方に基づくものでした。
しかし、新法は、この「競合禁止(non-concurrence prohibition)」の原則を廃止し、契約違反によって生じた損害についても、契約責任と不法行為責任の競合を原則として認めています。これにより、被害者である債権者は、損害の性質に応じて、より有利な法理を選択して請求できるようになります。
ただし、この競合の原則は、当事者間の合意によって契約で排除することが可能です。しかし、身体的・精神的損害、または意図的な不正行為による損害の場合は、契約で競合を排除する条項を設けても無効となります。
履行補助者の「準免責」から「直接責任」へ
ベルギーの旧法では、下請業者、従業員、役員などの履行補助者(executing agent)は、「準免責(quasi-immunity)」の原則によって保護されていました。これは、主たる契約を締結した顧客(principal)が、契約履行中に過失を犯した補助者に対して、直接的な不法行為責任を追及することを原則として認めないというものでした。顧客は、自らの契約相手である主たる債務者(contractor)に対してのみ、契約責任を追及することが許されていました。
しかし、新法は「準免責」の原則を廃止し、顧客は履行補助者に対して直接不法行為責任に基づく損害賠償を請求できるようになったのです。この改正は、主たる債務者が倒産した場合など、被害者が救済されないリスクを軽減することを目的としています。
ただし、履行補助者には、顧客からの直接請求に対する防御策が用意されています。履行補助者は、主たる契約(顧客と主たる債務者間の契約)に規定された責任制限条項や免責条項、時効の援用など、主たる債務者が利用できた防御策を援用できます。また、従業員の場合は、雇用契約法第18条に基づく保護(詐欺、重過失、反復的な軽過失の場合のみ責任を負う)が引き続き適用されます。
実務上の影響とリスク管理
今回の改正は、契約違反によって生じた損害を、その真の元凶である当事者や人物に直接追及できる道を広げるものです。この思想は、被害者保護を強化し、損害賠償請求の選択肢を増やす一方で、ベルギーで事業を行う企業に新たな法的リスクをもたらします。
- 請求権競合の原則化:企業は、契約上の不履行が不法行為の要件も満たす場合、相手方から契約責任だけでなく、不法行為責任に基づいて損害賠償を請求される可能性が高まります。これにより、従来の責任制限条項が、不法行為責任には適用されないと解釈されるリスクが生じるため、契約条項の改訂が不可欠となります。
- 履行補助者の直接責任化:自社が元請け業者としてベルギー企業と取引を行う場合、自社の従業員や下請業者が犯した過失に対し、顧客から直接不法行為責任を追及されるリスクが増大します。一方で、自社が顧客の立場である場合は、契約相手である元請け業者の信用リスク(倒産など)に依存することなく、実際に損害を引き起こした下請業者や従業員に直接責任を問うという新たな法的選択肢を得ることになります。
これらの改正は、多くの新法がそうであるように、その規定の多くが「補足的」な性質を持っています。これは、契約当事者が合意によって新法の適用を排除または変更できることを意味します。したがって、今回の法改正がもたらすリスクをコントロールするためには、契約書の見直しと改訂が最も重要な対応策となります。
ベルギー新法と日本法との異同および日本企業への提言

ベルギーの新法は、日本の法体系と類似する点もあれば、大きく異なる点もあります。これらの異同を理解することは、日本の経営者や法務ご担当者の皆様が適切なリスク管理を行う上で不可欠です。
日本の法体系を基準に、ベルギー新法との異同を比較すると、以下の表のように整理されます。
ベルギー旧法(~2024年12月31日) | ベルギー新法(2025年1月1日~) | 日本法(民法) | |
---|---|---|---|
請求権競合の扱い | 原則として競合禁止 | 競合が原則 | 判例により競合容認 |
履行補助者への直接請求の可否 | 原則として準免責により不可 | 直接の不法行為請求が可能 | 雇用主の債務不履行責任/使用者責任として追及 |
過失の認定基準 | 抽象的な「善良なる管理者」の注意義務 | 「合理的にかつ慎重な人物」の基準に具体的な考慮事項を追加 | 抽象的な「善良なる管理者」の注意義務 |
契約による責任制限の可否 | 限定的な状況で可能 | 可能(ただし、身体・精神的損害や意図的行為は不可) | 可能(ただし、公序良俗違反は無効) |
まず、請求権競合について、日本では、判例法理によって債務不履行(民法第415条)と不法行為(民法第709条)の請求権競合が原則として認められています。ベルギーの新法がこの原則を採用したことは、この点において、日本の法務実務にとってより理解しやすい法体系が構築されたことを意味します。旧法下での競合禁止という厳しい原則が、より柔軟な被害者救済の道へと転換したのです。
次に、履行補助者責任ですが、この分野は、日本法とベルギー新法の間に最も大きな相違点が存在します。日本の民法では、債務者(企業)は、その履行補助者(従業員や下請業者)の行為を自らの行為と見なし、その過失によって生じた損害に対し債務不履行責任(民法第415条)を負います。被害者である債権者が、履行補助者に対し直接契約責任を追及することはできません。また、不法行為(民法第709条)を根拠として従業員個人に直接責任を問うことは可能ですが、その場合、使用者である企業も使用者責任(民法第715条)に基づいて連帯して責任を負います。これに対し、ベルギー新法は、顧客(契約の当事者)が、契約関係のない下請業者や従業員に対し、直接不法行為責任を追及できるという点で、日本法よりも踏み込んだ被害者保護を明確に認めています。これは、損害の元凶となった者に対し、契約関係の有無にかかわらず直接責任を負わせるという、新法の思想の現れです。
まとめ
ベルギーの新法は、日本企業がベルギーで事業活動を行う上での法的リスクの構図を根本的に変えつつあります。これらの変化に適切に対応するため、以下の具体的なアクションが推奨されます。
まず、契約書の緊急レビューと改訂です。ベルギー企業との間で現在有効な、または将来締結する可能性のある全ての契約、特にサービス提供や業務委託に関する契約を直ちにレビューする必要があります。
次に、保険契約の見直しです。契約責任および不法行為責任の範囲が拡大したことに伴い、現行の事業活動に係る損害賠償保険(liability insurance)が新たなリスクを十分にカバーしているか確認し、必要に応じて見直すことが推奨されます。特に、従業員や下請業者が顧客から直接請求された場合の弁護費用や損害賠償金までカバーされるか、保険会社にご確認いただくことが重要です。
最後に、社内体制・リスク管理の強化です。ベルギーのビジネスパートナーや従業員に対し、今回の法改正がもたらす影響について周知徹底してください。新法の過失認定基準(「合理的にかつ慎重な人物」の基準)を踏まえ、潜在的な不法行為リスクを評価するプロセスを導入し、新たな法的基準に沿った行動基準を策定することが求められます。
ベルギーの新法は、取引の公正性、透明性、そして被害者保護をより重視する現代的な法体系への移行を象徴するものです。これらの変化を深く理解し、契約上のリスクを事前に管理することで、日本企業はベルギー市場における法的安定性を確保し、ビジネスをより強固なものにすることができます。私たちモノリス法律事務所は、ベルギー民法改正に関する深い知見と実務経験に基づき、日本企業の皆様のベルギーでの円滑なビジネス展開を、契約書の見直しから現地パートナーとの交渉まで、包括的にサポートさせていただきます。新たなビジネスチャンスを安全に掴むためにも、お気軽にご相談ください。
関連取扱分野:国際法務・海外事業
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務