リトアニアのNASDAQ Vilniusと上場基準を弁護士が解説

リトアニア(正式名称、リトアニア共和国)は、EU圏内において最も急速に経済成長を遂げている国の一つであり、日本企業にとっても、新たなビジネス機会を探る上で注目すべき市場と言えます。同国は、世界銀行の「ビジネス環境の容易さ」指数で高い評価を獲得し、フィンテックやIT分野への外国直接投資(FDI)を積極的に誘致しています。このビジネス環境の中核をなすのが、バルト海地域の金融ハブとして機能する証券取引所、NASDAQ Vilniusです。
NASDAQ Vilniusは、ニューヨークのNASDAQという世界的ブランドの信頼性と、近隣諸国であるエストニアやラトビアの市場と統合された「NASDAQ Baltic」という地域市場の機能を併せ持つ、ユニークな存在です。
本記事では、この市場が提供する上場の機会だけでなく、その上場基準や法的枠組みを、日本の法制度、特に東京証券取引所の市場構造と比較しながら詳細に解説します。
この記事の目次
リトアニアの経済的特質とNASDAQ Vilnius
リトアニアの経済環境
リトアニアは、1990年代に計画経済から市場経済へと迅速に移行し、EU加盟後には他のバルト諸国とともに「バルトの虎」と呼ばれるほどの目覚ましい経済成長を達成しました。1990年の独立回復以降、GDPは500パーセント以上成長しており、近年もEU圏で最も成長が速い経済の一つとして位置付けられています。この成長の背景には、政府が推進した一連の自由化改革と、熟練した高度な教育を受けた労働力があります。
特に注目すべきは、フィンテック分野における目覚ましい発展です。リトアニア政府とリトアニア中央銀行は、電子マネー機関や決済機関のライセンス取得手続きを簡素化しており、EU圏内で最もフィンテック企業にとって魅力的な国の一つとなっています。この環境は、マイクロソフト、IBM、バークレイズといった多国籍企業を惹きつけ、ITサービスやソフトウェア開発といった付加価値の高いセクターへの外国直接投資が年々増加しています。リトアニアのビジネス環境は、世界銀行の「ビジネス環境の容易さ」指数で11位、ヘリテージ財団の「経済的自由度指数」で15位という国際的な評価によっても裏付けられています。
NASDAQ Vilniusの概要
NASDAQ Vilniusは、1993年にヴィリニュス証券取引所(VSE)として設立され、その後、グローバルな金融サービス企業であるNasdaq, Inc.の傘下に入りました。現在は、エストニアのタリン証券取引所とラトビアのリガ証券取引所とともに、単一の「NASDAQ Baltic」市場を形成しています。
このNASDAQ Balticは、単なる複数の取引所の集合体ではなく、共通の電子取引システム(INET)や統一された市場モデル、共同の会員資格、共通の情報配信プラットフォームを共有しています。これにより、上場から取引、市場データ、清算、決済、証券保管に至るまで、価値連鎖全体をカバーする資本市場インフラを提供しています。
ただし、注意が必要なのは、NASDAQ Vilniusが「NASDAQ」の名称を冠しているものの、これはニューヨークのNASDAQと同じ市場であることを意味するものではないという点です。NASDAQ Vilniusは、あくまでEUの法的枠組みに基づく地域市場であり、米国のグローバル市場ではありません。この事実は、上場後のIR活動、想定される投資家層、適用される会計基準、そして法的遵守事項に直接影響します。例えば、米国NASDAQのグローバル・マーケットに上場する際に求められる、1億1,000万ドル以上の市場価値や、米国の証券取引委員会(SEC)への登録といった厳格な要件は、NASDAQ Vilniusには適用されません。この点を正確に理解することは、事業計画を立てる上で不可欠です。
NASDAQ Vilniusの階層構造
NASDAQ Balticには、異なる目的と要件を持つ2つの主要な市場があります。
メインマーケット(Regulated Market)
設立から長期間が経過し、厳格な情報開示や高い透明性を確保できる、いわゆる「ブルーチップ」企業向けの市場です。この市場への株式上場には、最低3年間の事業継続年数、400万ユーロ以上の企業価値、そして浮動株比率が25%以上、もしくは金額で1,000万ユーロ以上という要件が求められます。財務報告は国際財務報告基準(IFRS)に準拠する必要があり、金融監督当局による承認を受けた目論見書の提出が必須となります。
ファーストノース(First North)
これは、新興・成長企業向けに設計された代替市場(MTF:Multilateral Trading Facility)です。メインマーケットとは異なり、EUの法規制に基づく「規制市場」の法的地位を持っていません。事業継続年数や最低時価総額に関する数値的な形式基準がなく、その代わりに「認定アドバイザー(Certified Adviser)」との契約が必須となります。上場準備の負担も軽減されており、公募を行わない場合は簡素化された企業概要書での上場が可能であり、財務報告は年次および半期報告、会計基準も柔軟性が高いのが特徴です。
リトアニアと日本の市場を比較
日本の証券取引所には、プライム、スタンダード、グロースといった市場があり、それぞれに株主数、時価総額、利益額など明確な数値基準(形式基準)が設けられています。こうした構造に慣れた日本の読者にとって、NASDAQ Balticの「ファーストノース」市場は、一見すると特異なものに映るかもしれません。
しかし、日本の市場にもファーストノースと高い類似性を持つ市場が存在します。それは、東京証券取引所のTOKYO PRO Market(TPM)です。TPMもまた、株主数や時価総額、利益額といった数値基準を設けておらず、上場適格性の判断を「J-Adviser(J-アドバイザー)」という専門家が行う制度を採用しています。このTPMの「J-アドバイザー」制度と、ファーストノースの「認定アドバイザー」制度は、その機能と役割において非常に似通っています。どちらの制度も、上場候補企業が市場の信頼性に足るかを専門家の視点から調査・確認し、上場後も開示義務の履行やコンプライアンスに関して助言・指導を行う役割を担っています。
この類似性は、リトアニアの市場が、日本の成長企業が既に活用しているTPMと同じく、厳格な形式基準なしに公的市場の信用力を獲得し、資金調達や組織体制強化のステップとできることを意味しています。ファーストノースは、日本のスタートアップや中小企業にとって、EU市場への足がかりとなりうる現実的な選択肢であり、オーナーシップを維持しつつ、企業価値向上を目指す上で有効な手段となり得ます。
NASDAQ Vilnius メインマーケット | NASDAQ Vilnius ファーストノース | 東証 グロース市場 | TOKYO PRO Market | |
---|---|---|---|---|
事業継続年数 | 3年以上(株式) | 規定なし | 規定なし | 規定なし |
時価総額の要件 | 400万ユーロ以上(株式) | 規定なし | 規定なし | 規定なし |
浮動株比率 | 25%以上(または1,000万ユーロ以上) | 規定なし | 25%以上 | 規定なし |
利益の額の要件 | 健全な財務状況 | 規定なし | 規定なし | 規定なし |
会計基準 | IFRS(国際財務報告基準) | 柔軟性あり | 日本会計基準など | 柔軟性あり |
上場準備の特異点 | 目論見書が必須 | 認定アドバイザーとの契約が必須 | 主幹事証券会社の審査 | J-アドバイザー制度 |
リトアニアの金融監督体制と法的枠組み

リトアニア中央銀行(Bank of Lithuania)の役割
リトアニアの金融市場を監督する上で、日本の制度との根本的な違いを理解することが重要です。日本では、中央銀行である日本銀行が物価の安定や金融システムの安定を担う一方、金融機関の監督や市場の監視は主に金融庁が担っており、監督機能は分担されています。
これに対し、リトアニアでは、リトアニア中央銀行(Bank of Lithuania)が、中央銀行としての役割(物価安定、金融政策)に加え、金融市場全体の監督を担う「統合された金融監督機関」として機能しています。同中央銀行は、銀行、信用組合、保険会社、決済機関など、800以上の金融市場参加者を監督しており、フィンテック企業に対しても、迅速なライセンス付与手続きや規制サンドボックスの運営を通じて、金融イノベーションの促進に積極的な役割を担っています。この統合型監督モデルは、企業が単一の窓口で包括的な規制対応を進められる可能性を示しており、手続きの効率性という点で日本企業に利点をもたらすと考えられます。
法的枠組み
リトアニアの金融関連法は、EU加盟国としての義務に基づき、EU指令を国内法に転換したものであり、EU圏全体で統一された法的枠組みの下で機能しています。例えば、市場濫用規制や目論見書に関するEU指令が、リトアニア国内の「金融商品市場法」などの根拠となっています。
これは、主に国内法で完結している日本の金融商品取引法とは根本的に異なります。日本には、歴史的な経緯から銀行業務と証券業務を原則的に分離する「銀証分離」の原則があり、銀行がブローカー業務を行うことは原則として許されていません。一方、EU法に準拠するリトアニアの制度では、このような歴史的背景を持つ制度とは異なるアプローチが取られています。
インサイダー取引・市場操作に対する法規制とEU法判例
リトアニアの「金融商品市場法」は、EUの市場濫用規制(MAR)に基づき、インサイダー情報の定義と取引の禁止を定めています。この点において、日本の金融商品取引法と共通の目的を持っています。
しかし、その法的要件には重要な違いが見られます。日本の金融商品取引法では、インサイダー情報を「知って」取引を行うことが規制の対象となりますが、EU法では、インサイダー情報を「使用して(use)」取引を行うことが要件とされています。この「使用」の要件について、EU司法裁判所は、判例を通じて重要な解釈を示しています。欧州検察庁(EPPO)の調査を引用すると、
C-45/08 Spector Photo Group事件は、内部情報の保有者が取引を行った場合、情報を使用したことが推定される、という解釈を示しています。これは、情報保有者が取引を行ったこと自体が、違法性の強い証拠となることを意味しており、日本企業にとって、特に注意すべき法的リスクとなります。
紛争解決と法執行の実態
リトアニアの裁判制度は、民事・刑事事件を扱う一般裁判所と、行政紛争を扱う行政裁判所という二つの系統に分かれています。リトアニアでは、EUの金融不正を専門に捜査する欧州検察庁(EPPO)が主導する事件が、現地の裁判所で審理されています。例えば、2024年10月22日、EPPOの捜査に基づき、ヴィリニュス地方裁判所(Vilniaus apygardos teismas)は、EU資金の不正取得に関する詐欺・贈収賄事件で、2名の被告に有罪判決を下しました。これは、EU法に基づく法執行が、現地で具体的に行われていることを示す重要な事例であり、リトアニア市場の法的透明性と信頼性を示唆するものと言えるでしょう。
さらに、リトアニア中央銀行は、金融サービスに関する消費者紛争を、当事者間の合意に基づき、公平かつ無料で解決する手続きを提供しています。これは、監督機関が直接関与する独自の仕組みであり、金融消費者保護に対する強いコミットメントを示しています。
リトアニアNASDAQ Vilnius上場企業の事例と事業モデル
NASDAQ Vilniusには、リトアニア経済を牽引する多様な企業が上場しており、その事業モデルから多くの示唆を得ることができます。ここでは、代表的な上場企業を3社紹介します。
再生可能エネルギー:Ignitis grupė
Ignitis grupėは、リトアニア政府が74.99%の株式を保有する国営エネルギー企業です。同社の事業モデルは、電力・ガス網の運営と、風力・太陽光発電を中心とした再生可能エネルギー事業に焦点を当てた、統合型ユーティリティです。2020年のIPOでは、政府が支配権を維持しつつ、4億5,000万ユーロもの資本を市場から調達しました。これは、国が戦略的に重要な産業の成長資金を市場から調達し、同時に所有権を維持するモデルを示しており、官民連携を推進する日本の読者にとって興味深い事例となるでしょう。
バルト三国最大の旅行会社:Novaturas
Novaturasは、バルト三国で最大のツアーオペレーターであり、リトアニア、ラトビア、エストニアを主な活動拠点としています。400以上の外部代理店、自社販売所、そして急成長するEコマースといった多様な流通チャネルを通じて、事業を展開しています。NASDAQ Vilniusに上場することで、リトアニアだけでなく、バルト三国全体を視野に入れたビジネス戦略が可能になることを示唆しています。
ファッション小売:Apranga
1997年以来NASDAQ Vilniusに上場しているAprangaは、バルト三国最大のファッション小売企業です。同社は、Zara、Hugo Boss、Emporio Armaniといった多数の国際的なブランドとフランチャイズ契約を結び、多ブランド戦略を推進しています。Aprangaの成功は、国際的なブランドとの提携を通じて、小規模な国内市場を超え、地域全体に事業を拡大する戦略が有効であることを示しています。これは、国際的なブランドを持つ日本企業が、リトアニア市場を足がかりにEU内で事業を展開する際の参考となるモデルです。
まとめ
本記事は、リトアニアのNASDAQ Vilniusとその上場基準について、日本の読者向けに詳細な解説を試みました。NASDAQ Vilniusは、特に「ファーストノース」市場を通じて、日本の成長企業にEU圏での資金調達と信用力向上の機会を提供します。この市場は、日本のTOKYO PRO Marketと類似した柔軟な形式基準を持ち、オーナーシップを維持しつつ上場を目指す企業にとって、魅力的な選択肢となり得ます。
しかし、その裏側には、日本の法制度とは異なるEU法との調和、中央銀行が監督機能も担う統合型金融監督体制、そしてインサイダー取引規制における法的解釈の違いといった、潜在的なリスクと機会が存在します。これらの違いを正確に理解し、適切に対応することが、リトアニアでの事業成功には不可欠です。
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務