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法律記事MONOLITH LAW MAGAZINE

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イギリス会社法2006年における取締役の法的義務

イギリス会社法2006年における取締役の法的義務

イギリスでの事業展開は、日本企業にとって魅力的な機会を秘めていますが、成功の鍵は、日本の法的枠組みとは異なるイギリスの会社法、特に取締役の法的義務を深く理解することにあります。日本の経営者や法務担当者が直面するであろう、法哲学、実務慣行、そして責任の範囲における決定的な相違点を理解することは、イギリス事業における法的リスク管理と強固なコーポレート・ガバナンス構築をサポートします。

本稿では、イギリス会社法2006年に成文化された7つの義務を、その歴史的背景、コモン・ローとの複雑な関係性、そして最新の判例が示す現代的な課題を交えて詳細に解説します。

イギリスコモン・ローの集大成としての会社法2006年

コモン・ローから成文法へ

イギリスにおける取締役の法的義務は、日本のような大陸法系の成文法典に一元的に規定されてきたわけではなく、長い歴史の中でコモン・ロー(判例法)の積み重ねを通じて発展してきました。特に、受託者(fiduciary)としての義務は、信託法の法理を基礎として形成され、「会社に対する忠実義務」や「利益相反回避義務」といった原則が確立されてきたのです。会社法2006年(Companies Act 2006)は、こうした伝統的な判例法上の義務を成文化し、単一の法体系に統合することを意図して制定されました。

日本の会社法との比較

会社法2006年の成文化は、法的確実性を高め、取締役が遵守すべき義務をより明確にするという重要な意義を持ちます。日本法では、取締役の主要な義務として「善良な管理者の注意義務」(善管注意義務、会社法第330条)と「忠実義務」(会社法第355条)が定められており、これらは包括的かつ抽象的な概念として解釈されています。これに対し、イギリス会社法は、取締役の義務を第171条から第177条までの7つの具体的な条文として明記しました。このアプローチの違いは、日本の経営者にとって、イギリスにおける法的リスクの特定と管理をより容易にするという実務的な利点をもたらします。 

この成文化は、コモン・ローの原則を単純に条文化することを目的としていましたが、特に第172条に代表されるように、その解釈と適用においては、コモン・ローの伝統が引き続き重要な役割を果たしています。このため、第172条の「啓発された株主価値」の概念が、判例法によって依然として株主中心主義的に解釈されているという批判も存在します。これは、成文法が判例法の伝統的解釈に引きずられるという、イギリス法特有の現象を示唆しています。したがって、日本の経営者が、条文の文字面だけでなく、その背後にあるコモン・ローの原則と最新の判例法を理解しなければ、真の法的リスクを把握することは困難です。例えば、第172条で列挙されたステークホルダーへの配慮は、条文上は義務的であるものの、裁判所がそれをどのように評価するかは、個別の事案と裁判所の裁量に大きく依存するのです。 

イギリスの取締役に対する7つの主要な法的義務と判例

イギリスの取締役に対する7つの主要な法的義務と判例

権限内行動義務(Companies Act 2006 Section 171)

取締役は、会社の憲章(Constitution)、主に定款(Articles of Association)に従って行動し、与えられた権限を正当な目的のためにのみ行使しなければなりません。例えば、増資の権限を、株主総会で特定の株主の議決権を希薄化させる目的で行使した場合、たとえ会社のためになると考えても、この義務に違反する可能性があります。この義務は、取締役が権限を逸脱したり、不適切な目的で利用したりすることを防ぎ、会社の法的枠組みを維持することを目的としています。

会社の成功促進義務(Companies Act 2006 Section 172)

これはイギリス会社法における取締役義務の核心であり、そのニュアンスを理解することが最も重要です。取締役は、誠実かつ善意において、会社全体の株主の利益のために会社の成功を最も促進する方法で行動しなければなりません。この義務は「啓発された株主価値(enlightened shareholder value)」という概念を成文化したもので、単なる株主利益最大化ではなく、長期的な視点から会社の成功を追求することを求めています。

特筆すべきは、取締役がこの義務を果たすにあたり、以下の非網羅的な要素を「考慮に入れる(have regard to)」ことが求められている点です。

  • 長期的な意思決定の帰結(the likely consequences of any decision in the long term)
  • 従業員の利益(the interests of the company’s employees)
  • サプライヤー、顧客等との事業関係を育む必要性(the need to foster the company’s business relationships with suppliers, customers and others)
  • 会社の事業がコミュニティと環境に与える影響(the impact of the company’s operations on the community and the environment)
  • 高い水準の事業慣行を維持することの重要性(the desirability of the company maintaining a reputation for high standards of business conduct)
  • 株主間の公平性(the need to act fairly as between members of the company)

日本の経営者にとって、これは日本の忠実義務(会社法第355条)が原則として会社の利益を最優先に求めるのと異なり、意思決定プロセスに多様なステークホルダーの利益を組み込むことを明確に求めている点で、決定的な相違点となります。

この義務の解釈は、現代的な課題に直面しています。環境NPOであるClientEarthが、石油メジャーShellの取締役会を相手取り、気候変動リスクへの対応が不十分として第172条および第174条違反で派生訴訟を提起した事案は、この義務の現代的な課題を象徴しています。裁判所は、取締役の意思決定の妥当性について判断することは「経営判断」の領域であるとして訴えを却下しましたが 、この判決は、現在の裁判所が環境問題のような複雑な戦略的判断に介入することに消極的であることを示しています。しかし、これは取締役がこれらのリスクを完全に無視してよいことを意味しません。むしろ、適切な情報収集(第174条)と意思決定プロセスを構築することの重要性を強調しています。この状況は、日本の経営者がイギリス子会社を統治する際に、本国の慣行をそのまま適用するのではなく、イギリスの法務・財務専門家と連携して、ESGリスクを含むあらゆるリスクを網羅的に検討し、意思決定の過程を適切に記録しておくことの必要性を強く示唆します。 

独立判断義務(Companies Act 2006 Section 173)

取締役は、いかなる外部からの影響にも左右されず、自らの独立した判断に基づいて職務を遂行しなければなりません。これは、特定の株主や他の取締役の利益を代弁する役割を持つ取締役であっても、最終的には会社全体の利益のために独立した判断を下すべきであることを意味します。この義務は、取締役が第三者からの指示に盲目的に従うことを禁じ、取締役会全体の健全な機能と、会社に対する真の忠実性を保証することを目的としています。

相当な注意・技能・勤勉義務(Companies Act 2006 Section 174)

この義務は、取締役が職務を遂行する上で、合理的な注意、技能、および勤勉さを行使しなければならないと定めています。この基準は、以下の二つの要素から構成される点で、日本の善管注意義務の概念と異なる特質を持ちます。

  • 客観的基準: 当該取締役の職務を遂行する者として、合理的に期待される一般的な知識、技能、および経験。
  • 主観的基準: 当該取締役が実際に有している、より高度な知識、技能、および経験。

つまり、この義務は最低限の基準を設けつつ、特定の専門家(例:公認会計士の資格を持つCFO)には、その専門性にふさわしいより高い水準の注意義務を課すことを意味します。

この義務の基準を明確にした重要な判例が、Re D’Jan of London Ltdです。この事案では、取締役が会社の火災保険申込書の内容を確認せずに署名した結果、保険契約が無効となり、会社に損害が生じました。裁判所は、取締役の行為は過失であり、「合理的な注意深い人」として期待される基準を満たしていなかったと判断しました。この判例は、取締役個人の知識や経験不足が、義務違反の免責事由にはならないことを明確に示しています。

この二重基準の法的構造は、日本の親会社からイギリス子会社に派遣される、特定の専門資格を持たない取締役であっても、その職務に見合った最低限の注意義務が課されることを意味します。一方で、日本の親会社から派遣されたCFOやCTOのような専門家取締役は、その専門性ゆえに、より高い水準の義務を負うことになります。このことは、日本の経営者に対し、取締役の選任に際して、単なる役職や経験だけでなく、イギリス法の要求水準を満たす知識と技能を考慮する必要性を突きつけています。また、専門家以外が取締役を務める場合、外部の専門家(法律家、会計士など)の助言を適切に求め、そのプロセスを記録することが、リスク管理上極めて重要となります。

利益相反回避義務(Companies Act 2006 Section 175)

取締役は、会社との間で直接的または間接的な利益相反が生じる、または生じる可能性がある状況を回避しなければなりません。この義務は、取締役が会社の財産、情報、または事業機会を私的に利用することを禁じています。例えば、取締役が個人的なプロジェクトのために会社の機密情報を利用することや、会社が検討している事業機会を個人的に奪うことなどがこれに該当します。この義務は、取締役が常に会社の最善の利益のために行動することを確保するためのものです。 

第三者からの便益受領禁止義務(Companies Act 2006 Section 176)

取締役は、その職務の遂行に関連して、利益相反を生じさせる可能性のある便益を第三者から受け取ってはなりません。この義務は、賄賂や過度な贈答品、接待などを明確に禁じ、取締役の独立性と公正性を保護します。ただし、通常の企業活動における軽微な接待などは許容されますが、その判断には慎重さが求められます。

取引における利害関係開示義務(Companies Act 2006 Section 177)

取締役は、会社との間で自身が直接的または間接的な利害関係を有する取引を行う際に、その利害関係の性質と範囲を他の取締役に開示しなければなりません。この義務は、取締役会の意思決定プロセスにおける透明性を確保するために不可欠です。適切な開示が行われれば、利益相反の可能性があっても、他の取締役がその状況を認識した上で取引の承認を検討できるようになります。 

日英会社法の相違点

取締役の義務に関する考え方

日本とイギリスの会社法における取締役の義務は、その法的根拠、構造、および運用において根本的な違いがあります。大まかに述べれば、日本の会社法は取締役の義務を包括的に捉えていますし、イギリスの会社法は取締役の義務を具体的にリストアップしています。

倒産危機下の義務の転換

会社が倒産危機に瀕した場合、取締役の義務が株主から債権者へと転換するという原則は、イギリス法における重要な特質です。

この原則は、West Mercia v Doddのような判例を通じて、会社の財産が実質的に債権者のものとなる状況下で、取締役がその利益を考慮すべきであるという考え方として発展しました。BHS事件として知られるWright & Ors v Chappellの判例は、倒産危機が確定的でなくとも、取締役が債権者利益を軽視して行った「不当な取引」に対し、第172条違反や「misfeasant trading」として損害賠償責任が問われうることを示唆しました。この判決は、取締役が会社の財務状況を常に監視し、少しでも危険な兆候が見られた場合、安易なリスクテイクや親会社への利益移転といった行為を厳に慎まなければならないという、新たな法的基準を確立したと解釈できます。 

日本法では、債権者が取締役の義務違反を追及する場合、主に会社を介しての「債権者代位権」の行使が想定されますが 、イギリスでは、破産管財人(liquidator)が会社を代表して、取締役個人を直接訴追できるという点で、責任追及のメカニズムが大きく異なります。日本の親会社から派遣された経営者は、子会社が財務困難に陥った際に、日本のグループ経営の論理を優先して安易に意思決定を下すと、イギリス法下で個人的な責任を追及されるリスクに直面します。このため、イギリスでの事業においては、経営危機対応の初期段階から、債権者利益を最優先に考え、法務・財務の専門家と綿密に連携することが不可欠です。 

まとめ

本稿で詳述したように、イギリス会社法2006年における取締役の義務は、日本の法制度とは異なる哲学と実務に基づいています。7つの義務がコモン・ローを成文化したものであるという歴史的背景は、日本法における「善管注意義務」や「忠実義務」とは異なるリスクと機会を伴うものです。

なお、第172条の「啓発された株主価値」は、株主利益の追求を主軸としつつも、ステークホルダーを考慮するというハイブリッドなアプローチを提示しましたが、このアプローチには限界があるという指摘もあります。これを乗り越えようとする動きが「Better Business Act」キャンペーンです。このキャンペーンは、第172条を改正し、株主だけでなく、従業員、コミュニティ、環境といったステークホルダーの利益を、株主利益と平等に考慮することを全ての企業に義務付けようとしています。

特に、倒産時の債権者利益への配慮や、ESGといった現代的課題に対する義務の厳格化は、判例を通じて絶えず進化しており、日本の経営者が慣れ親しんだ枠組みを大きく超えるものです。イギリスでの事業を成功に導くためには、これらの法的義務を深く理解し、現地の法務環境に適応したコーポレート・ガバナンス体制を構築することが必須の要件となっています。

モノリス法律事務所では、イギリスでの会社設立から運営に至るまで、お客様の事業を成功に導くための包括的なリーガルサービスを提供しております。お困りの際は、ぜひ当事務所までご相談ください。

関連取扱分野:国際法務・海外事業

弁護士 河瀬 季

モノリス法律事務所 代表弁護士。元ITエンジニア。IT企業経営の経験を経て、東証プライム上場企業からシードステージのベンチャーまで、100社以上の顧問弁護士、監査役等を務め、IT・ベンチャー・インターネット・YouTube法務などを中心に手がける。

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