エストニアの民法・契約法を弁護士が解説

「電子国家」として世界的に知られるエストニア共和国(以下「エストニア」)。その先進的なデジタル社会の基盤を支えているのが、柔軟かつ合理的な法体系です。エストニアでのビジネス展開を検討される日本の経営者や法務担当者にとって、現地での契約実務の根幹をなす「民法・契約法」の理解は、避けて通れない重要な課題です。
エストニアの契約法の主要な根拠は、2002年に施行された「債務法総論 (Law of Obligations Act、以下「LOA」)」にあります。この法律は、契約の成立から履行、違反、救済措置に至るまでを包括的に規律する、エストニア私法の中核となる法典です。LOAは、デジタル経済のダイナミズムに対応できるよう、EU指令や国際的な原則(UNIDROIT国際商事契約原則など)を色濃く反映しており、原則に基づいた柔軟なアプローチを特徴としています。
特に重要なのは、日本の法制度とも共通する「企業間取引(B2B)」と「消費者取引(B2C)」の区別です。B2B契約においては当事者間の契約の自由が広く認められる一方、B2C契約では厳格な消費者保護規則が適用されます。
本記事では、エストニアでのビジネス展開に不可欠なLOAの基本構造を解説するとともに、日本の経営者や法務担当者が特に注意すべき、日本法との重要な相違点に焦点を当てて解説します。特に、契約解除の要件や、B2B契約における不公正条項の扱いは、日本法とは異なるアプローチが取られており、実務上、極めて重要です。また、エストニア法の解釈において決定的な役割を果たす**「誠実の原則」と「合理性の原則」**についても、具体的な判例を交えながらその実態に迫ります。
この記事の目次
エストニア契約法の基盤「債務法総論(LOA)」
エストニアの民法・契約法は、その多くが2002年7月1日に施行された「債務法総論(LOA、エストニア語:Võlaõigusseadus)」に集約されています。この法典は、契約から生じる債務関係だけでなく、不法行為や不当利得など、債務(Obligation)全般を規律する包括的な法律です。
エストニアはEU加盟国であるため、LOAはEUの各種指令(特に消費者保護指令や電子商取引指令など)の内容を国内法化する役割も担っています。そのため、その構造はドイツ民法などの大陸法の強い影響を受けつつも、国際的な取引実務やコモンローの要素も取り入れた、近代的かつ柔軟な内容となっています。
この法律は、エストニアの公式法令データベースである「Riigi Teataja」にて、最新の英訳版を閲覧することが可能です。
エストニアにおける契約の自由と厳格な消費者保護(B2BとB2C)
LOAは、契約当事者の属性に応じて異なる規律を設けています。
B2B(企業間)契約における契約の自由
企業間の取引(B2B)においては、原則として「契約自由の原則(Principle of Party Autonomy)」(LOA § 5)が広く適用されます。当事者は、法律の任意規定(当事者の合意がない場合に適用される規定)と異なる内容を、自由に契約で定めることができます。
ただし、この自由も無制限ではなく、法律の強行規定や、公序良俗(good morals or public order)に反する合意(民法総則法 § 86)は無効となります。
B2C(消費者)契約における厳格な保護
一方、事業者と消費者との間の取引(B2C)については、LOAはEU法に基づき、極めて厳格な消費者保護規定を置いています。特に、事業者が一方的に準備した標準約款(Standard Terms)の使用には強い規制が課されます。
消費者に著しく不利な条項や、誠実の原則に反して消費者の権利と義務の間に重大な不均衡を生じさせる条項は、「不公正(unfair)」なものとして無効とされます(LOA § 42)。この点は日本の消費者契約法と類似していますが、エストニア法(ひいてはEU法)の保護の範囲は、しばしば日本法よりも広範かつ強力であるため注意が必要です。
日本法務が押さえるべきエストニア契約法の重要相違点

エストニアの契約法は大陸法系であり、日本法と多くの共通点を持ちます。しかし、実務上、決定的な違いを生む可能性のある相違点も存在します。
相違点①:契約解除の要件としての「重大な違反」
日本企業がエストニア企業と契約を締結する際、最も注意すべき点のひとつが、契約違反(債務不履行)があった場合の契約解除(Withdrawal from contract)の要件です。
日本の民法では、2020年の改正後、相手方に債務不履行があった場合、原則として相当の期間を定めて履行を催告し、その期間内に履行がなければ契約を解除できます(日本民法第541条)。この際、その違反が「重大」であることまでは原則として要求されません。
しかし、エストニア法では、契約解除の前提条件として、原則として相手方による重大な契約違反(Fundamental breach of contract)」があることが要求されます(LOA § 116 (1))。
LOA § 116 (1)
A party may withdraw from a contract if the other party has committed a fundamental breach of a contractual obligation.
(訳:当事者は、相手方が契約上の義務について重大な違反を犯した場合、契約を解除することができる。)
何が「重大な違反」にあたるかは、LOA § 116 (2) に具体的に列挙されています。例えば、違反によって契約の目的が達成できなくなった場合や、定められた追加の履行期間(日本の催告に相当)を経過しても履行しない場合などがこれに該当します。
この違いは、「軽微な」契約違反が発生した際、日本法務の感覚では解除可能と考えられても、エストニア法上では解除が認められないリスクがあることを意味します。契約書作成時には、どのような場合に「重大な違反」とみなすのか(例えば、特定の義務違反を自動的に重大な違反とみなす条項など)を明確に定義しておくことが、紛争予防の観点から極めて重要です。
相違点②:B2B契約における「不公正条項」の司法審査
もう一つの重要な相違点は、標準約款(Standard Terms)に関する規律です。日本法でも2020年改正で定型約款(民法第548条の2)に関する規定が新設されましたが、その規律は主に、不意打ち条項や一方的に不当な条項の「組入れ(契約内容とすること)」をコントロールする点に主眼が置かれています。
エストニア法(LOA § 42)も、消費者契約(B2C)において不公正な標準約款を無効と定めています。注目すべきは、この「不公正性」のコントロールが、判例を通じてB2B契約にも及び得る点です。
この点に関して、エストニア最高裁判所(Riigikohus)は、事案番号 3-2-1-139-14(2015年1月19日判決)において、重要な判断を示しました。
この事案で最高裁判所は、B2B契約において使用された標準約款が、相手方当事者(この場合は事業者)にとって著しく不公正(unfair)である疑いが生じた場合、その標準約款を提示した当事者(条項の恩恵を受ける側)が、「その条項が当該取引の文脈において不公正ではないこと」を立証する責任を負う、と判示しました。
これは、B2B契約であっても、力関係に差がある場合や、一方に著しく不利益な内容が標準約款として組み込まれた場合、裁判所がその条項の内容にまで踏み込んで無効と判断する可能性が、日本法よりも高いことを示唆しています。エストニア企業から提示された契約書をレビューする際は、たとえB2B取引であっても、一方的に不利な条項がないか、より慎重に確認する必要があります。
エストニア法解釈の鍵:「誠実の原則」と「合理性の原則」
エストニアのLOAを理解する上で欠かせないのが、法解釈や契約の履行において最も重要な指針となる二つの一般原則です。
誠実の原則 (Principle of Good Faith)
LOA第6条(§ 6)は、「誠実の原則」を定めています。これは、当事者が単に契約条項の文言に従うだけでなく、互いの権利と利益を尊重して行動しなければならないという、エストニア私法の根本原則です。
LOA § 6 (1)
Obligees and obligors shall act in good faith in their relations with one another.
(訳:債権者と債務者は、相互の関係において誠実に行動しなければならない。)
この原則は、単なる努力目標ではありません。LOA第14条は、契約締結前の交渉段階においても、当事者は誠実の原則に従う義務を負うと定めています。
エストニア最高裁判所の判例(例:事案番号 3-2-1-89-06、3-2-1-168-14)では、契約締結の真の意図がないにもかかわらず交渉を続けたり、合理的な理由なく一方的に交渉を打ち切ったりする行為は、この「誠実の原則」違反にあたるとして、損害賠償責任が認められています。
合理性の原則 (Principle of Reasonableness)
LOA第7条(§ 7)は、「合理性の原則」を定めています。これは、特定の状況下で「慎重かつ合理的な人(a careful and reasonable person)」が通常どのように行動するかを基準に、当事者の行為や契約の解釈を行うべきとする原則です。
契約書に明記されていない事項や、履行の具体的な方法について争いが生じた場合、裁判所はこの「合理性」を基準に判断します。例えば、契約違反があった場合に要求される通知期間や、損害の範囲、前述の「重大な違反」の判断など、法のあらゆる場面でこの「合理性」のフィルターが適用されます。
まとめ:エストニアビジネス成功の鍵は現地法の正確な理解
本記事では、エストニアの民法・契約法の根幹である「債務法総論(LOA)」について、その基本構造と、日本企業が特に注意すべき日本法との相違点を中心に解説しました。
記事の要点をまとめると、以下の通りです。
- エストニアの契約法は、2002年施行の「債務法総論(LOA)」に集約されている。
- B2B契約では契約の自由が広く認められるが、B2C契約では厳格な消費者保護が適用される。
- 【日本法との相違点①】 契約解除には、原則として「重大な契約違反」(LOA § 116)が必要であり、日本法よりも要件が厳格である。
- 【日本法との相違点②】 B2B契約であっても、標準約款が著しく不公正な場合、裁判所がその効力を否定する可能性があり、その立証責任が条項提示側にあるとした最高裁判例(3-2-1-139-14)が存在する。
- 全ての法解釈の基礎として、「誠実の原則」(LOA § 6)と「合理性の原則」(LOA § 7)が極めて強力な指針として機能しており、契約交渉段階から適用される。
デジタル先進国エストニアは、その法体系もまた、国際標準を取り入れた合理的かつ柔軟なものとなっています。しかし、その柔軟性は「誠実」かつ「合理的」な行動を当事者に強く求めるものであり、日本法とは異なるアプローチが必要となる場面も少なくありません。
エストニアでのビジネス展開、現地企業との契約交渉、または契約書のレビューにおいて、これらの法的な相違点を正確に把握し、リスクを管理することは不可欠です。現地の法制度や具体的な契約条項の解釈についてご不明な点や懸念がございましたら、当事務所でもサポートいたします。
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務

































