マルタ共和国の労働紛争を扱うインダストリアル・トリビューナル制度と主要判例

マルタ共和国の雇用関係法は、2002年に制定された雇用・労使関係法(Employment and Industrial Relations Act 2002、以下「EIRA」)を中心としています。そして、これに基づく労働紛争解決機関である「インダストリアル・トリビューナル(Industrial Tribunal)」の制度は、日本の労働法制とは一線を画す独自の性質を有しています。インダストリアル・トリビューナルは、「訴訟ではない労働紛争用の紛争解決手続」という意味では、日本法の労働審判と同質の制度ですが、そのシステムや運用が、労働審判とは大きく異なっています。
本記事では、マルタでの労働紛争発生時に登場する「インダストリアル・トリビューナル」について、その制度概要や主要判例などを解説します。
この記事の目次
マルタのインダストリアル・トリビューナル制度の構造と手続き
委員会構成
マルタのインダストリアル・トリビューナルは、雇用関連の特定の紛争について排他的な管轄権を持つ法的な裁定機関であり、その決定は法廷の判決と同等の拘束力を持ちます。
そして、その構成は、審理する事案の性質によって変化するという特徴を持っています。例えば、不当解雇や差別、ハラスメントといった個別労働紛争の事案においては、裁判官が務める議長(Chairperson)1名のみで構成されます。これはEIRA第73条第4項および第30条第3項に定められた形式です。一方で、より広範な労働組合と会社間の「労働争議(Trade Disputes)」を扱う際には、EIRA第73条第3項より、議長に加えて、使用者と労働者の利益を代表する委員がそれぞれ1名ずつ、合計3名で構成されます。
手続きの概要と費用
インダストリアル・トリビューナルへの申し立ては、事案の事実を記載した書面による「付託(referral)」を通じて行われます。この書面は、原則として侵害行為があった日から4ヶ月以内にトリビューナルの登録局に提出する必要があります。この4ヶ月という期間は、労働者個人が申し立てを行う際の重要な期限となります。
また、この手続きにおいて、弁護士を依頼した際の弁護士費用や、法廷速記録が必要となった場合の費用以外、例えば申請費用や裁判費用は発生しません。。
マルタにおけるインダストリアル・トリビューナルによる決定の効果

日本の労働審判制度は、個々の労働者と事業主間のトラブルを迅速に解決することを目的とした、裁判外の紛争解決手続きです。ただ、労働審判委員会が下す「労働審判」の決定は、当事者がその決定から2週間以内に異議を申し立てるだけで効力を失い、自動的に訴訟に移行されます。すなわち、日本の労働審判は、当事者の双方が納得しない限り、最終的な法的拘束力のある解決には至らないという、調停を主眼とした制度になっています。
一方、マルタのインダストリアル・トリビューナルは、EIRAによって「法廷の効力を持つ(force of a Court)」機関として明確に位置付けられています。トリビューナルの下した裁定は当事者双方を法的に拘束し、裁判所の決定と同様に執行力を持つことが明記されています。トリビューナルの決定に対する不服申し立ては、原則として「法的な争点(points of law)」に限定され、控訴裁判所(Court of Appeal)に提起されることになります。言い換えると、労働紛争に関しては、原則的にインダストリアル・トリビューナルが唯一の「事実審」となり、控訴裁判所は法律審になる、ということです。
日本では、労働審判を「試しにやってみる」という感覚で利用し、不満があれば訴訟へ移行するという選択肢が広く取られますが、マルタではトリビューナルでの決定が原則として最終的なものとなり、その後の法的手段は極めて限定的です。このため、マルタでのトリビューナル手続きは、日本での労働審判手続きよりもはるかに重く、事業リスクに直結する重要な局面となります。
項目 | マルタのインダストリアル・トリビューナル | 日本の労働審判制度 |
法的性質 | 司法判断を行う準司法機関、法廷の効力を持つ | 簡易・迅速な紛争解決手続き、調停を主眼とする |
決定の法的効果 | 当事者を法的に拘束し、執行力を有する | 異議申立てがない場合に訴訟上の和解と同一の効力を有するが、異議申立てで効力を喪失する |
不服申立て | 法律上の争点に限定して控訴裁判所へ申し立て | 理由を問わず異議申立てが可能で、その時点で訴訟へ自動移行する |
平均解決期間 | 事案により長期間に及ぶことがある | 平均81.7日と迅速な解決が図られる |
マルタにおけるインダストリアル・トリビューナルの主要判例
「二重の救済措置」を認めた著名判例
Rueben Fenech vs L-Awtorità għas-Servizzi Finanzjarji ta’ Malta(控訴裁判所判決日:2025年6月6日)は、最高執行責任者(COO)が業績不振を理由に解雇された事案です。トリビューナルは、解雇の理由自体(実体)だけでなく、その手続きの公正性(形式)を厳格に審査しました。特に、社内規定である「スタッフハンドブック」に定められた正式な調査手続きを経ず、CEOが独断で解雇を決定した点を問題視しました。トリビューナルは、この行為が「自然正義の原則(principles of natural justice)」に違反し、「CEOが検察官と裁判官の両方を務めた」と結論付け、手続きの不備を理由に解雇を無効と判断しました。
この事案の最大のポイントは、トリビューナルが被解雇者に対し、「原職復帰(re-instatement)」と「補償金(compensation)」という二重の救済措置を命じたことです。この判断は、EIRAの規定と一見矛盾するように見えましたが、控訴裁判所もこの判断を支持しました。裁判所は、高位の職位にあった原告の再就職機会が著しく制限されること、業界内での評判が損なわれることなど、個別の事情を斟酌した結果、原職復帰を命じるという異例の判断を下しました。
日本の実務では、解雇紛争は金銭的な和解で終結することが一般的であり、たとえ裁判で解雇が無効とされても、原職復帰が命じられることは稀です。しかし、この判例は、マルタでは特に幹部社員などキーパーソンの解雇において、安易な金銭解決が通用せず、強制的な原職復帰を命じられる可能性が現実的に存在することを示しています。
身体的理由による解雇と「合理的な配慮」
Christopher Zammit Dimech vs Cherry Limited(判決日:2018年12月5日)では、心臓疾患を患い、医師の勧めで在宅勤務を希望したウェブデザイナーの従業員が不当に解雇された事案が扱われました。会社は当初在宅勤務を許可したものの、1か月後には出社を命じ、最終的に従業員が仕事を放棄したとして解雇を決定しました。トリビューナルは、会社が従業員の障がいに対して「合理的な配慮(reasonable accommodations)」を行う義務を怠ったと判断しました。会社が在宅勤務が事業運営に不利益をもたらすことを証明できなかったため、解雇は不当かつ差別的であると結論付け、合計3万ユーロという高額な補償金を支払うよう命じました。
この判例は、従業員の健康上の問題に対する企業の配慮義務が、単なる形式的なものではなく、具体的な行動を伴う厳格なものであることを示しています。
「聴聞の機会」の重要性
2022年3月23日判決(ケース番号3833/CC)では、会社役員との口論後に即時解雇された従業員の事案が取り扱われました。この際、トリビューナルは「audi alteram parte」(他者の意見を聞く)という原則の重要性を強調しました。この原則より、たとえ即時解雇が妥当と思われる状況であっても、解雇の決定を下す前に、従業員に弁明の機会を与えるという公正な手続きが不可欠となります。
この判例は、前述のFenech判例と同質の理論に基づくものであり、マルタでは、形式的な手続きの不備が、実体的な解雇理由を無効化する強力な根拠となり得ます。
控訴審にて判断が覆る可能性
インダストリアル・トリビューナルの決定は法的な拘束力を持ちますが、法律審となる控訴裁判所で覆される可能性もあります。2023年9月15日控訴裁判所判決では、ある銀行が従業員を不当解雇したとしてトリビューナルが下した決定を、控訴裁判所が覆す判断をしました。このケースは、差別的な扱いと不当解雇の主張に関連するものであり、最終的に控訴裁判所が企業の主張を支持する形となりました。
このように、トリビューナルでの勝訴は、必ずしも最終的な勝利を意味するわけではなく、日本の労働審判と同様に、長期的な法廷闘争に発展するリスクはあります。
その他のマルタの管轄権に関する留意点

ただし、インダストリアル・トリビューナルは、すべての労働紛争を管轄するわけではありません。その管轄権は、EIRAによって排他的に定められています。具体的には、「不当解雇」、「差別的な扱い」、「嫌がらせや被害者報復」、「同一価値労働同一賃金の原則違反」に関する事案を審理します 。
このため、例えば、雇用契約違反(breach of employment contract)に関する事案は、トリビューナルの管轄外であり、通常の民事裁判所で争う必要があります。また、労働者のアスベスト被曝による健康被害をめぐる事案(Brincat and Others v. Malta)は、インダストリアル・トリビューナルではなく、欧州人権裁判所(ECHR)を含む通常の裁判制度で争われています。
まとめ
本記事で解説した通り、マルタのインダストリアル・トリビューナル制度は、その司法的な性質、裁定の法的拘束力、そして判例に見られる独自の判断基準において、日本の労働法制とは多くの点で異なります。特に、安易な金銭解決が難しい「原職復帰」のリスクや、手続きの公正性に対する厳格な要求は、日本の経営者が直面する可能性のある新たなリスクです。これらのリスクを適切に管理するためには、マルタでの円滑な事業運営を見据え、進出前に適切な雇用契約の締結や、社内規程(スタッフハンドブックなど)の整備を入念に行うことが不可欠です。こうした準備を怠ると、予期せぬ法的紛争や、多大な費用、そして事業運営への支障を招きかねません。
関連取扱分野:国際法務・マルタ共和国
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務