モロッコでの契約書作成・交渉時に問題となる民法・契約法

モロッコ(正式名称、モロッコ王国)は、地中海と大西洋を結ぶ地理的優位性、そして近年の経済開放政策により、日本企業にとって魅力的なビジネス展開先の一つとなっています。しかし、異文化圏での事業成功には、現地の法制度、特に契約法に対する深い理解が不可欠です。
本稿では、日本と同じ大陸法の原則に根ざしながらも、独自の要件や解釈を持つモロッコの契約法の核心を、日本の法務担当者や経営者の皆様に向けて、実務的な観点から詳細に解説します。契約の有効要件から、特に注意すべき雇用契約の実務、さらには判例が示す法的リスクの傾向まで、モロッコビジネスの第一歩を踏み出すための重要な法的知見をお届けします。
この記事の目次
モロッコ契約法の基礎
意思自治の原則と大陸法の系譜
モロッコは、その法制度において、日本と同じく大陸法系の原則を採用しています。この法体系の根幹にあるのは、「意思自治の原則(principe de l’autonomie des volontés)」という考え方です。これは、契約が当事者間の自由な意思の合致によって成立し、その内容も当事者の合意によって自由に形成されるという基本的な法的思想を示しています。
契約法の中核をなす『義務及び契約法典』
モロッコにおける契約法の根幹をなすのは、1913年に制定された『義務及び契約法典(Dahir formant Code des obligations et des contrats)』、通称DOCです。この法典は、民事契約全般から不法行為(délit)や準不法行為(quasi-délit)まで、広範な領域を規定する包括的なものです。この法典が1世紀以上前に制定されたものであることは事実ですが、モロッコはこれを過去の遺産として放置することなく、現代のビジネス環境に適応させるための継続的な改正を加えてきました。たとえば、2007年の法律第53.05号により、電子商取引に関する規定が法典に統合されており、電子的な手段で作成・保存された法的行為が認められるようになっています。
モロッコにおける契約の有効要件

日本法と同様、モロッコ法においても有効な契約を成立させるためには、特定の要件を満たす必要があります。これらの要件には、日本法にはない、または解釈が異なる重要な要素が存在するため、その違いを正確に理解しておくことが不可欠です。
合意(Consentement)と意思表示の瑕疵
契約は、当事者間の有効な意思表示の合致(合意)によって成立します。この原則は日本法と共通しています。そして、合意の有効性が損なわれる「瑕疵」については、『義務及び契約法典』第39条が「錯誤(erreur)、詐欺(dol)、または強迫(violence)によって与えられた同意は無効である」と規定しています。これは日本の民法における意思表示の瑕疵の規定と非常に類似しています。実務上は、意思表示の合致を証明する手段として、書面での契約締結が強く推奨されます。さらに、モロッコでは、契約書に法的な効力を持たせるために、署名を公証役場や特定の機関で認証してもらう「正当な認証(légalisation de la signature)」が必要となる場合があります。これは日本法にはない、契約締結時の重要な手続きです。
能力(Capacité)と契約当事者の適格性
契約当事者は、契約を締結する法的能力を有していなければなりません。この原則も日本法と共通のものです。『義務及び契約法典』第3条は、「法律により定められた無能力者を除き、誰でも契約を結ぶことができる」と定めています。また、未成年者や被保佐人といった「無能力者」の行為については、第5条や第9条でその効力が詳細に規定されています。第9条には「他方の当事者が義務を履行したことにより、未成年者または無能力者が利益を得た限度において、常にその義務を負う」という規定があり、これは日本の民法における制限行為能力者制度と似た構造です。
目的(Objet)の特定性と合法性
契約の目的(objet)は、合法かつ特定可能でなければなりません。『義務及び契約法典』第58条は、「義務の対象となる物は、その種類において少なくとも特定されていなければならない」と定めています。また、第59条は「物理的または法的に不可能な物を目的とする義務は無効である」と規定しています。将来の物や行為を目的とすることも原則として可能ですが、法律で禁止されている場合を除きます(第61条)。
日本の民法にはない原因(Cause)
モロッコ契約法において、日本企業が最も注意を払うべきは「原因(Cause)」の概念です。これは契約が締結された「正当な理由や目的」を指し、日本法には直接的な同等の概念が存在しません。『義務及び契約法典』第62条は「原因のない、または違法な原因に基づく義務は無効である」と明記しています。この「原因」には、二つの側面があります。
一つは、客観的原因(Cause objective)です。これは契約上の義務に対する直接的な「対価(contrepartie)」を指します。例えば、売買契約における売主の「財産権移転義務」に対する「代金受領の権利」がこれに該当します。この客観的原因は、契約の種類によって一律に定まるものです。
もう一つは、主観的原因(Cause subjective)です。これは当事者が契約を締結するに至った「個人的な動機(motif)」を指します。この動機は契約ごとに異なり、多様です。モロッコ法では、この主観的原因が公序良俗(bonnes mœurs)や法(loi)に反する場合、その契約を無効と判断します。
日本法では、契約の動機が不法な場合、民法90条の公序良俗違反として無効となりますが、これは「原因」という独立した有効要件としてではなく、より一般的な概念として処理されます。モロッコ法においてはこの「原因」が明確な無効事由として機能しており、この違いは実務上の法的リスクに大きな非対称性をもたらします。たとえば、日本企業が現地企業と共同事業契約を締結する際、契約書上は合法的な事業目的が明記されていても、もし相手方がその事業をマネーロンダリングや違法薬物取引の隠れ蓑として利用する意図を持っていた場合、その契約はモロッコ法上、無効と判断される可能性があります。これは、単純な契約書レビューだけでは見抜けない、より高次元の法的リスクです。
モロッコ法 | 日本法 | |
---|---|---|
合意(Consentement) | 意思表示の合致。署名の正当な認証が実務上重要 | 意思表示の合致 |
能力(Capacité) | 法律で定められた無能力者を除き、未成年者や被保佐人の保護規定が存在 | 制限行為能力者制度による |
目的(Objet) | 合法かつ特定可能であることで、物理的または法的に不可能な物は無効 | 確定・実現可能・適法であること |
原因(Cause) | 独立した要件として存在し、客観的・主観的理由の両方が合法であることが必要 | 独立した要件としては存在せず、動機の違法性は公序良俗違反として処理される |
モロッコの紛争解決メカニズムと裁判例の動向
万一、契約紛争が発生した場合、モロッコでは商事裁判所(Tribunal de commerce)がその第一審管轄権を有します。近年、判例の統一化が進んでおり、これは法的予見性を高め、国際的なビジネス関係における信頼を強化する動きであると評価されています。この判例統一化の動きは、モロッコが外国からの投資を誘致する上で、法的な安定性を重要視していることの表れと解釈することが可能です。
モロッコの裁判例は、契約上の義務の解釈や、不履行時の責任追及において重要な役割を果たしています。特に労働分野においては、労働者保護の観点から判例が形成される傾向が見られます。
また、カサブランカ控訴裁判所が2021年に下した判決では、仲裁合意書の署名不備が仲裁判断の有効性に影響しないと判断されており、契約書における仲裁条項の運用が活発になっていることがうかがえます(CA. soc. Casablanca 2021)。この判例から、裁判外紛争解決(ADR)としての仲裁が実務上有効な選択肢であることが分かります。
まとめ
本稿で解説したように、モロッコ契約法は日本法と共通の基盤を持つものの、特に「原因」の概念や、契約書面の認証など、日本企業が事前に把握しておくべき重要な相違点が存在します。これらの違いを軽視し、安易な契約締結を行うことは、将来的な法的リスクや予期せぬ紛争につながる可能性があります。
しかし、モロッコは外国投資の誘致に積極的であり、法的安定性を高めるための努力を続けています。現地の法制度を正しく理解し、適切な契約書を作成・管理することで、これらのリスクは十分に回避可能だと言えるでしょう。
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務