介護事業主の行政・事故・労務リスクを防ぐ利用者契約書の必須条項【2024年報酬改定対応】

今日の介護・福祉事業を取り巻く環境は、高齢化と制度の複雑化により、事業主に対して極めて高度な法的コンプライアンスを要求しています。事業主が直面する三大リスクは、利用者とのトラブル(民事リスク)、複雑化する労務問題、そして厳格な行政指導・行政処分(公法リスク)です。
日本の介護制度は、行政主導の措置制度から利用者主体の契約制度(介護保険法)へと移行しましたが、サービスの質を担保するための「運営基準」は依然として厳格です。利用者契約書は、単なる利用者との約款として機能するだけでなく、この運営基準遵守を証明するための「実行計画書」としての役割を担います。
契約書を軽視することは、単に利用者との民事トラブルの種となるだけに留まりません。契約書に記載すべき義務は、すべて介護保険法上の運営基準の必須項目と連動しています。したがって、契約書が不備である、あるいはその内容が実務で実行されていない場合、行政監査において「運営基準違反」として、指定取り消しや介護報酬の減算といった、経営に直接的な打撃を与える危機を招くことになります。契約書の整備と実行は、行政指導や減算リスクを回避するための防御策となるのです。
本記事では、2024年度の報酬改定によって義務化・減算化されたコンプライアンス義務を踏まえつつ、利用者契約書に絶対的に必須な条項とその実務上の留意点を解説します。
この記事の目次
介護サービス利用者主体の「契約制度」と事業者の特有の責任
「措置制度」から「契約制度」へ
日本の高齢者介護の制度は、1963年に制定された老人福祉法に基づく「措置制度」から、2000年施行の介護保険法に基づく「契約制度」へと大きな変遷を遂げました。措置制度下では、サービス内容は行政(自治体)が一方的に決定し提供するものであり、利用者の選択の自由は限定的でした。しかし、契約制度の導入により、利用者はサービス提供者を選び、対等な立場で契約を結ぶという、利用者主体の仕組みが確立されました。
この歴史的転換は、介護サービスが単なる福祉給付から、契約に基づくサービス提供へと性格を変えたことを意味します。これにより、事業者は利用者に対し、民法上の安全配慮義務や説明義務といった、より重い法的責任を負うことになりました。なお、老人福祉法に基づく措置制度は、現在も介護保険の対象外の者や、経済的な理由、高齢者虐待などの緊急避難的な状況における「最後のセーフティネット」として機能し続けています。
介護サービス利用者契約における法的制約
介護サービス契約が民間の契約自由の原則のみに服するわけではありません。介護保険法という公法的な枠組みの下にあるため、事業者側の権利行使には特有の厳しい制約が伴います。
まず、サービス提供拒否の禁止(応諾義務)です。介護保険法上の指定介護サービス事業者は、正当な理由なくサービスの提供を拒んではならないと法令で規定されています。これは、利用者が安心して必要なサービスを継続的に受けられるようにするための公的な義務であり、民間の契約関係における自由な提供可否の判断を大きく制限します。
この制約があるため、介護サービス契約の法的性質は、単なる商品売買契約ではなく、「公的要素を含む継続的給付契約」とされます。この特殊な法的地位が、事業者側からの契約解除(退所)のハードルを極端に高くしています。契約書に解除条項を設けたとしても、行政や司法が認める「正当な理由」がなければ、その解除は不当な提供拒否となり、行政処分や訴訟リスクに直結します。
また、契約制度は利用者側に契約能力があることを前提としますが、認知症などで判断能力が不十分な利用者が契約を結べないという問題も発生します。これを解決するために、成年後見制度との連携が不可欠となります。成年後見制度は、判断能力が不十分な者の財産管理や契約手続きを支援するための法的な基盤であり、事業者にとっては、利用者との契約行為を適法に進めるための重要な支援制度となります。
契約不備による行政処分と減算のリスク(2024年度改定対応)

運営基準違反による指定取り消しリスクの構造
行政処分、特に指定取り消しや効力停止は、介護事業主にとって事業継続を脅かす最大の法的リスクです。行政処分に至る典型的な違反類型は、人員基準や運営基準の不遵守、介護給付費の不正請求、そして虚偽申請です。
利用者契約書の内容が、運営基準の遵守状況を測る「鏡」となるケースが多々あります。例えば、個別支援計画の作成義務や、その後の定期的なモニタリングの実施義務(6か月に1回以上など)は運営基準で定められています。もし契約書にモニタリングに関する規定が曖昧であったり、規定はあっても実務で定期的な記録・実施がされていなかったりする場合、監査時にサービス提供の適正性が証明できず、「運営基準違反」とみなされるリスクが極めて高くなります。このように、契約書に記載すべき義務を果たさないことは、利用者との契約不履行に留まらず、直ちに行政へのコンプライアンス違反へと発展します。
2024年度報酬改定によるリスク
2024年度の介護報酬改定では、一部の運営基準が義務化され、その措置を講じていない場合に介護報酬が減算されるという財務リスクが導入されました。これは、コンプライアンスの不備が、直ちに事業所の収入減少につながることを意味します。
高齢者虐待防止措置未実施減算
虐待防止委員会の設置、指針の整備、職員への定期的な研修の実施といった高齢者虐待防止のための措置は、運営基準上義務付けられており、これが未実施の場合に減算対象となります。居宅療養管理指導や特定福祉用具販売を除くほぼ全てのサービスが対象となります。事業者は、利用者との契約書に人権尊重や身体拘束禁止の義務を明文化するとともに、組織としてこれらの義務履行のための体制が整っていることを証明できなければ、減算を免れることはできません。
業務継続計画(BCP)未策定減算
災害や感染症発生時にもサービスを継続するための業務継続計画(BCP)の策定も、運営基準として義務化されました。こちらも、居宅療養管理指導、特定福祉用具販売を除く全サービスが対象です。ただし、訪問系サービス、福祉用具貸与、居宅介護支援については、令和7年3月31日までの間、減算を適用しないという経過措置が設けられています。しかし、義務そのものは既に発生しているため、経過措置期間中であっても、速やかな策定が求められています。
減算が適用される場合、その事実が生じた月(事実が判明した月)の翌月から、改善が認められた月まで、利用者全員について所定単位数から減算されます。この減算期間は最低3ヶ月と定められており、事業収益に与える影響は甚大です。契約書を整備することは、利用者へのサービスの継続性や安全性を約束する条項を明確にし、行政対応の両面を強化する上で不可欠です。
コンプライアンス義務 | 運営基準 | 措置未実施の場合の減算 | 減算適用時期(経過措置) |
---|---|---|---|
業務継続計画(BCP)策定 | 義務化 | 単位数から減算 | 訪問系サービス等は令和7年3月31日まで猶予(義務自体は発生) |
高齢者虐待防止措置 | 義務化 | 単位数から減算 | 居宅療養管理指導等を除く全サービスで適用開始 |
身体拘束等の適正化 | 義務化 | 単位数から減算 | 2024年4月1日より適用 |
介護サービス利用者契約書に必要な条項とチェックポイント

目的条項と契約期間の明確化
目的条項においては、サービスが法令の理念に則ったものであることを明記します。特に、就労継続支援A型やB型など、事業種別が異なる場合は、提供するサービスや利用者に期待される活動内容が明確に異なるため、条項を分岐させて明記することが重要です。
契約期間・更新規定に関しては、介護保険や障害福祉サービスにおいて、給付の根拠となる受給者証の有効期間との連動を明確に規定することが、適正な給付費の受領と契約管理において不可欠です。また、自動更新規定を設ける場合には、「更新拒絶の通知期限」を明示し、利用者の不利益とならないよう配慮しつつ、契約が漫然と継続するリスクを回避する必要があります。
サービス内容の特定と費用に関する規定
サービスの質と適正性を担保するため、契約書には個別支援計画に関する規定を含めなければなりません。利用者一人ひとりの状態に応じたサービス提供計画に基づき、定期的なモニタリング(6か月に1回以上)を実施する旨を契約書に明文化しておくことが、サービスの適正性の重要な証拠となります。
利用料の記載においては、利用者負担分は「市町村が定める額に準拠する」という原則を明記します。一方で、食事代、送迎費、レクリエーション費などの加算される追加費用がある場合は、その費用項目、金額、そして算定根拠を具体的に記載する必要があります。利用者に不利益な規定は、厚生労働省のガイドライン違反や指定取り消しリスクにつながるため、慎重な設定が求められます。
就労継続支援A型/B型の厳格な区分
就労継続支援A型およびB型事業所において、利用者契約書と労働法務の交差点にあるリスクが、「賃金」と「工賃」の誤用です。この区分の曖昧さは、後の重大な労務トラブルに直結する可能性を秘めています。
- A型(雇用型)は、事業者と利用者(障害者)が雇用契約を結び、利用者は労働基準法上の労働者と見なされます。支払われるのは「賃金」であり、最低賃金が保障されます。
- B型(非雇用型)は、雇用契約を結ばず、利用者は非雇用です。支払われるのは活動に応じた「工賃」であり、最低賃金の保障はありません。
A型事業者が利用者契約書や支払い明細で誤って「工賃」という用語を使用したり、実態が最低賃金支払いを要する雇用契約と見なされる活動を提供しているにもかかわらず、B型契約を結んでいたりした場合、これは労働基準法上の最低賃金保障義務違反に該当します。この法的誤用は、未払い賃金の請求、労働基準監督署による指導、そして広範な労務問題へ発展し、遡及支払(バックペイ)による事業継続性の危機を招きます。したがって、利用者契約書において、A型/B型の違いを曖昧にせず、条文レベルで「賃金」「工賃」の用語を厳格に使い分けることが、労働法務リスクを回避するための防御策となります。
A型(雇用型) | B型(非雇用型) | 留意点 | |
---|---|---|---|
法的関係 | 雇用契約あり | 雇用契約なし | 契約書・約款を完全に分離し、労働法の適用範囲を明確化 |
金銭支払 | 賃金 | 工賃 | 「工賃」の誤用は最低賃金違反リスクに直結 |
最低賃金 | 保障される | 保障されない | A型は労働時間の管理・記録が必須 |
平均月額 | 約8.1万円 | 約1.6万円 | 利用者へ提示する経済条件を明確に記載 |
事業者の義務と契約解除条項
事業者は、人権尊重、安全配慮義務、守秘義務といった基本的な義務を契約書に明文化しなければなりません。特に、介護事故が発生した際の家族や行政への連絡義務を契約書に明記することは、事故発生後の信頼維持に極めて重要です。また、身体拘束の原則禁止と、やむを得ない場合に限る具体的な手続きを契約書に盛り込むことで、運営基準の遵守体制を外部に示します。
契約解除条項については、事業者の権利行使に極めて高いハードルが課されていることに留意が必要です。法令はサービス提供拒否を厳しく禁じているため、事業者側からの契約解除(退所)には、行政や司法が認める「正当な理由」が不可欠です。
契約書には、事業者側の即時解除の根拠として、「他の利用者に対する著しい人権侵害行為」「長期間にわたる利用料の滞納」など、典型的な解除事由を具体的に明記します。しかし、単にこれらの事由が発生したという事実だけでは不十分です。正当性を証明するためには、契約書に基づき、事前の十分な指導、改善機会の提供、書面での通知といったプロセスを厳格に踏み、その経過を記録に残す必要があります。契約解除条項は、単なる文言ではなく、事業者が行政・司法の監視下で遵守すべき厳格な運用プロセスの起点となるのです。手続きを軽視した一方的な退所は、不当な提供拒否と見なされ、指定取り消しリスクや訴訟リスクに直結します。
介護事故訴訟に備える証拠保全戦略と契約書の連動

介護事故訴訟における事業者の責任構造
介護事故に関する訴訟において、事業者が問われるのは、民法上の安全配慮義務を怠ったかどうかです。具体的には、「事故の予見可能性」があったか、「結果回避義務」を尽くしたか、という点が争点となります。裁判例では、認知症対応型共同生活介護施設での転倒・骨折事故、特別養護老人ホームでの誤嚥による窒息死事故など、事業者が予見できたリスクに対して適切な予防措置を講じていなかったとして過失が認定されるケースが増加しています。
「法的証拠」としての記録管理体制の構築
訴訟時、事業者が適切な対応をしたことを証明するための生命線となるのが、正確で詳細な日々の介護記録と事故報告書です。
事業者は、日常的にリスクの特定、推定、優先順位付け、および軽減策の決定を行う「リスクアセスメント」を定期的に実施する必要があります。このリスクアセスメントの結果と、それに基づき講じた具体的な安全対策が詳細に記録されていれば、それは事業者が結果回避義務を履行したことを示す決定的な法的証拠となります。事故の経緯、原因、対策について、全職員が共通認識を持てるよう作成された事故報告書は、施設が安全配慮義務を果たしていたことの強力な裏付けとなります。
利用者契約書に、事業者の義務として、事故対応・報告に関する義務(家族・行政への速やかな連絡)を明確に定めることは、トラブル発生後の信頼維持に必須です。さらに、組織的なリスク管理体制(リスクアセスメントの実施や、リスクと対策を全職員に共有するための教育・研修体制)の存在を証明する記録こそが、安全配慮義務履行の最も強力な証拠となり、契約書はこれらの組織的体制の存在を外部に示す役割も担います。
まとめ:介護サービス契約書は弁護士に相談を
利用者契約書の整備は、単純な書面作成に留まらず、介護保険法、障害者総合支援法、老人福祉法、労働法、民法、さらには成年後見制度といった多岐にわたる法令知識の統合を必要とします。
特に、2024年度介護報酬改定によるBCPや虐待防止措置の義務化と減算措置は、法令遵守を怠った場合の経営的な影響が以前より遥かに大きくなったことを示しています。また、介護事業のM&Aを進める際にも、国庫補助金で取得した財産が含まれる場合、厚生労働大臣への財産処分承認申請が必要になるなど、専門知識なしに対応が困難な手続きが増大しています。
利用者契約書の不備は、単なる事務手続き上の問題ではなく、行政指導、訴訟、そして事業継続そのものを揺るがす深刻なリスクです。法的な防御を早期に固めることが、事業の安定的な継続と成長を可能にします。
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カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務