インド共和国のM&Aと企業結合規制、およびNCLTプロセスを解説

世界屈指の経済成長率を誇るインド共和国(以下、インド)は、日本企業にとって製造拠点としてだけでなく、巨大な消費市場としても極めて重要な地位を占めています。しかし、インドにおける企業の合併・買収(M&A)や組織再編のプロセスは、日本法に馴染んだ経営者や法務担当者にとって、想像以上に重く、かつ時間のかかる手続きとなることが一般的です。
日本における合併手続きは、当事会社間の契約締結と株主総会決議、そして債権者保護手続きを経て登記申請を行うことで完了する「登記所主導」のプロセスであり、実務上は2か月から3か月程度で完了することも珍しくありません。これに対し、インドの会社法(Companies Act)に基づく合併は、原則として司法機関である国立会社法審判所(National Company Law Tribunal、以下「NCLT」)の承認を要する「裁判所主導型」のプロセスです。この法的構造の違いにより、インドでの合併は完了までに通常8か月から12か月という長期間を要し、その間、規制当局や裁判所からの厳格な審査に晒されることになります。
本記事では、このNCLTプロセスが具体的にどのように進行するのか、なぜそれほどの時間を要するのかについて、最新の2025年の判例や法改正を交えて詳述します。また、2024年から2025年にかけて施行された競争法(Competition Act)の改正により導入された新たな届出基準や、NCLTを経由せずに迅速な合併を可能にする「簡易合併(Fast Track Merger)」制度の適用拡大についても解説します。これらは、進出済みの日本企業がグループ内再編を行う際や、新たな投資を行う際の戦略的選択肢を大きく左右する重要な変更点です。本稿を通じて、複雑なインドM&A法制の全体像と、実務上の留意点を把握していただければ幸いです。
なお、インドの包括的な法制度の概要は下記記事にてまとめています。
この記事の目次
インドのM&A手法と日本法との構造的差異
インドで事業買収や再編を行う場合、採用するスキームによって手続きの難易度と所要時間が劇的に変化します。日本企業が最も留意すべき点は、日本法では比較的簡易に行える「合併」や「会社分割」が、インドでは最も重い手続きに分類されるという事実です。
裁判所承認を要する合併手続きの特異性
日本の会社法において、合併は当事者間の「組織再編契約」として位置づけられていますが、インドにおける合併(Merger/Amalgamation)や分割(Demerger)は、会社法第230条から第232条に基づき、NCLTという準司法機関が監督し、最終的な許可を与える「スキーム(Scheme of Arrangement)」として扱われます。
これは、合併が単なる私的契約の範疇を超え、株主、債権者、従業員、そして「公共の利益(Public Interest)」に多大な影響を与える行為であるという法思想に基づいています。したがって、たとえ親会社と100%子会社の間の合併であっても、簡易合併制度を利用しない限り、原則としてNCLTへの申立てと審理が必須となります。
以下の表は、インドにおける主要なM&A手法と、日本法およびNCLT関与の観点からの比較をまとめたものです。
| M&A手法 | 法的根拠と概要 | NCLT承認 | 所要時間目安 | 日本法との主な違い |
| 株式譲渡 (Share Purchase) | 契約(SPA)による株式の移転。上場企業の場合は公開買付規制(Takeover Code)が適用される。 | 不要 | 1〜3ヶ月 | 日本と同様に契約ベースで完結するため迅速。ただし、非居住者(日本企業)が関与する場合は外為法(FEMA)の価格規制を遵守する必要がある。 |
| 事業譲渡 (Slump Sale) | 事業部門を一括して、継続企業の前提で譲渡する。所得税法第50B条に関連。 | 不要 | 3〜6ヶ月 | 日本の事業譲渡に近い。個別の資産移転手続きは必要だが、NCLTプロセスを回避できるため、合併の代替手段として多用される。 |
| 合併・分割 (Merger/Demerger) | 2つ以上の会社が法的に統合、または事業を切り出す。会社法第230-232条。 | 必須 | 8〜12ヶ月 | 日本では登記手続き中心だが、インドでは裁判所(NCLT)での審理、規制当局(RD, OL, 税務署)への通知と意見聴取が必須であり、圧倒的に時間がかかる。 |
| 簡易合併 (Fast Track Merger) | 特定の条件を満たす会社間の合併。会社法第233条。 | 不要 | 4〜6ヶ月 | 日本の簡易合併・略式合併に近いが、適用対象が限定的。政府(地域局長)の承認で足りるため、NCLTルートより迅速。 |
インドNCLTによる合併承認プロセスの実務詳細

NCLTを通じた合併手続きは、厳格なタイムラインと多数のステークホルダーへの通知義務を伴います。このプロセスは「申立て(Motion)」と呼ばれる2段階の法的手続きを中心に進行します。
第一申立てと会議招集命令
取締役会で合併スキームを承認した後、最初のステップとしてNCLTに対し「第一申立て(First Motion)」を行います。この段階での主な目的は、株主や債権者の会議を招集する許可、あるいは会議開催を免除する許可を得ることです。
日本では、要件を満たせば株主総会の開催自体を省略できる略式合併や簡易合併の制度が広く利用できますが、インドでは原則として会議の開催が命じられます。ただし、実務上は、事前に株主や債権者の90%以上から書面による同意書(Consent Affidavits)を取得して提出することで、NCLTから会議開催の免除(Dispensation)を得られるケースが多くあります。この免除が認められるかどうかが、全体のスケジュールを数ヶ月単位で左右することになります。
規制当局による介入と承認の遅延要因
第一申立てを経て会議(または免除)の手続きが進むと、会社は会社法第230条(5)に基づき、各種規制当局に対して通知を行い、30日以内の異議申立ての機会を与えなければなりません。通知先には、中央政府の代理人である地域局長(Regional Director:RD)、会社登記官(ROC)、所得税当局、公的清算人(Official Liquidator:OL)などが含まれます。
日本法との大きな違いは、これらの規制当局が合併の実質的な内容や、税務上の動機、さらには「公共の利益」への適合性について審査し、NCLTに対して報告書を提出する点にあります。特に所得税当局や公的清算人からの報告書の提出が遅れることが頻繁にあり、これが「8か月から12ヶ月」という長い所要時間の主たる原因となっています。仮に規制当局から異議が出された場合、会社はその解消に向けて交渉や修正を行う必要が生じ、プロセスはさらに長期化します。
第二申立てと最終聴聞
すべての承認と規制当局の報告書が揃った段階で、「第二申立て(Second Motion)」を行い、NCLTによる最終聴聞(Final Hearing)が開かれます。ここでNCLTがスキームを承認(Sanction)する命令を下し、その命令書を会社登記官に提出して初めて、合併は法的な効力を持ちます。
インドNCLTによる承認拒絶のリスクと重要判例
日本の実務感覚では、法的な形式要件さえ整っていれば裁判所や当局は合併を承認するものと考えがちですが、インドのNCLTは実質的な審査権限を積極的に行使します。特に近年、情報の開示不足や公共の利益を害すると判断された案件について、NCLTが承認を拒絶する事例が出ています。
重要な事実の不開示による却下:Vedanta Limited事件(2025年)
2025年3月4日、NCLTムンバイ・ベンチは、大手複合企業Vedanta Limitedが進めていた事業分割(Demerger)スキームを却下するという衝撃的な判断を下しました。
この事案において、申請会社の一つであるTalwandi Sabo Power Limited (TSPL) は、ある債権者(SEPCO)に対する約1,251カロールルピー(約200億円以上)の債務が存在したにもかかわらず、NCLTへの提出書類においてこれを著しく過少に記載し、無担保債権者としてのSEPCOの権利を実質的に排除しようとしました。NCLTは、会社法第230条に基づく「すべての重要な事実(Material Facts)」の完全な開示義務に違反したと認定しました。NCLTはスキームのビジネス上の妥当性を検討することなく、この重大な開示違反と手続き上の不正のみを理由としてスキーム全体を却下しました。
この判決から、インドの裁判所は、当事者が都合の悪い情報を隠蔽したり、手続きを操作しようとしたりする行為に対して極めて厳しい姿勢で臨むことがわかります。
参考:Vedanta Limited事件に関する詳細(SCC Online)
ペーパーカンパニーと公共の利益:Hologram Holdings事件(2024年)
2024年7月、NCLTチャンディーガル・ベンチは、Hologram Holdings Private Limited他による合併申請を却下しました。このケースでは、合併当事会社の財務諸表上で収益と費用が急増しているにもかかわらず実体的な事業活動が見られない点や、登録事務所が実質的に廃墟であったことが問題視されました。
NCLTは、この合併の目的が「架空取引の正当化」や「マネーロンダリング」にあると疑い、「公共の利益(Public Interest)」に反するスキームは、たとえ株主全員が同意していても承認できないと判示しました。日本企業が現地企業の買収や合併を行う際、対象会社の実態や過去の取引に不透明な点があれば、NCLTの段階で計画全体が頓挫するリスクがあると言えるでしょう。
参考:Hologram Holdings事件に関する詳細(Cyril Amarchand Mangaldasブログ)
インド簡易合併(Fast Track Merger)制度の拡大と戦略的活用

通常のNCLTプロセスが長期化・複雑化する一方で、インドは一定の要件を満たす合併について手続きを簡素化する動きも見せています。会社法第233条に基づく「簡易合併(Fast Track Merger)」は、NCLTへの申立てを不要とし、中央政府(地域局長)の承認のみで完了できる制度です。2024年から2025年にかけての規則改正により、この制度の利用可能範囲が大幅に拡大されました。
適用対象の拡大:兄弟会社合併とリバース・フリップ
従来、簡易合併は「小規模会社同士」や「持株会社と完全子会社」の間でのみ認められていました。しかし、最新の改正(Companies (Compromises, Arrangements and Amalgamations) Amendment Rules, 2025等)により、以下のケースも対象となりました。
- 兄弟会社間の合併:同一の持株会社を持つ子会社同士(Fellow Subsidiaries)の合併が可能となりました(ただし、消滅会社が非上場であること)。これにより、日本企業がインド国内に持つ複数の子会社を統合する際、NCLTを経ずに迅速に再編を行える可能性が高まりました。
- 非完全子会社との合併:持株会社と子会社の合併において、従来必須であった「100%完全子会社」という要件が緩和され、完全子会社でなくとも対象となりました。
- リバース・フリップ(Reverse Flip):外国の持株会社が、その完全子会社であるインド法人に吸収合併されるケースが明示的に対象となりました。これは、海外に親会社を持つスタートアップ等がインド市場への上場を目指して本社機能をインドに戻す際に有用です。
- 非上場会社間の合併:一定の負債要件などを満たす非上場会社同士であれば、関係会社でなくとも簡易合併を利用できる道が開かれました。
この制度を利用すれば、所要期間を4か月から6か月程度に短縮できる可能性がありますが、株主・債権者の90%以上の承認が必要であるなど、NCLTルート(75%承認)よりも高い合意形成ハードルが設定されている点には注意が必要です。
参考:簡易合併規則改正に関する通知(MCA公式PDFへの言及を含む記事)
インド競争委員会(CCI)による企業結合規制の最新動向
一定規模以上のM&Aを行う場合、会社法上の手続きとは別に、インド競争委員会(CCI)への届出と承認が必要となります。2023年改正法および2024年に施行された結合規則(Combinations Regulations)により、日本企業にも影響を与える重要な変更が行われました。
取引額基準(Deal Value Threshold)の導入
従来、CCIへの届出基準は「資産額」または「売上高」のみに基づいていました。しかし、デジタル経済における大型買収を捕捉するため、2024年から新たに「取引額基準(DVT)」が導入されました。
具体的には、当事会社の資産や売上が従来の基準以下であっても、以下の2点を満たす場合には届出が義務付けられます。
- 取引額が2,000カロールルピー(約350億円)を超えること。
- 対象企業がインド国内で「実質的な事業活動(Substantial Business Operations)」を行っていること。
これにより、資産規模は小さくとも高い評価額がつくIT企業やスタートアップ企業を買収する場合、新たに届出義務が発生する可能性が高まりました。また、審査期間の上限が従来の210日から150日に短縮されるなど、手続きの迅速化も図られています。
参考:インド競争委員会(CCI)2024年結合規則の解説(CCI公式)
まとめ
インドにおけるM&A、特に合併プロセスは、司法による強力な監督と、規制当局による多角的な審査を特徴としています。日本のように書類上の手続きだけで数ヶ月で完了する制度とは異なり、NCLTプロセスには「8か月から12ヶ月」という長い期間と、高度なコンプライアンス対応が求められます。
一方で、簡易合併制度の適用拡大や競争法審査の迅速化など、ビジネスのスピードに法制度を適合させようとする政府の改革も進んでいます。日本企業がインドでのM&Aや再編を成功させるためには、これらの最新の法改正を正確に理解し、NCLTルートと簡易合併ルートのどちらを選択すべきか、あるいは合併を避けて事業譲渡を選択すべきかという「ストラクチャーの選定」を慎重に行うことが不可欠です。
特に、2025年のVedanta判決に見られるように、不都合な事実の隠蔽や開示漏れは、手続きの最終段階であってもスキーム全体の却下につながる致命的なリスクとなります。現地法規制への深い理解と、透明性の高い手続き遂行こそが、インドビジネス成功の鍵と言えるでしょう。
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務

































