インドのESG開示(BRSR Core):上場企業とそのサプライチェーンの義務

インドにおいてビジネスを展開する日系企業にとって、現地の最新の法規制やコンプライアンス要件を正確に把握することは事業成功の不可欠な条件となります。近年、インドでは持続可能性や環境・社会・ガバナンスへの取り組みを重視する動きが急速に強まっており、インド証券取引委員会が主導するESG報告要件の厳格化はその代表例です。
本記事では、2025年度から時価総額上位500社へと適用範囲が拡大されるサステナビリティ報告の枠組みであるBRSR Coreの義務化について網羅的に解説します。さらに、インドの上場企業のみならず、その購買や販売の一定割合を占める主要取引先であるバリューチェーンにもESG報告の波及効果が及ぶ点について詳述します。
インド市場において上場企業と取引のある日本企業が、サプライヤーとしてどのようなデータ提供体制を構築し、第三者保証の準備をすべきかについて、現地の最新法令や判例、日本の法律との違いを交えながら深く掘り下げていきます。
この記事の目次
インドにおけるESG報告の進化とBRSR Coreの導入
インドの資本市場におけるESG報告の歴史は、企業の社会的責任や持続可能性を単なる理念から具体的な情報開示義務へと昇華させる過程でした。インド証券取引委員会は、投資家やステークホルダーに対して企業の環境・社会・ガバナンスに関する取り組みを透明化するため、段階的に報告要件を強化してきました。
従来の枠組みからBRSR Coreへの移行と義務化の背景
インド証券取引委員会は2021年5月、従来のビジネス責任報告書に代わる新たな枠組みとして、ビジネス責任およびサステナビリティ報告書(BRSR)を導入しました。このBRSRは、責任ある企業行動に関する国家ガイドラインの9つの原則に基づいており、環境負荷や労働環境、ガバナンス体制に関する定量的かつ定性的なデータ開示を求める画期的なものでした。2022年度からは時価総額上位1000社の上場企業に対してこのBRSRの提出が義務付けられ、インド市場におけるESG報告の基盤が確立されました。
しかし、開示されるデータの一貫性や信頼性をさらに高め、実体を伴わない環境配慮の主張であるグリーンウォッシュを防ぐために、インド証券取引委員会は2023年7月12日付の通達により、新たな枠組みであるBRSR Coreを導入しました。BRSR Coreは、全130以上に及ぶBRSRの開示項目の中から、特に重要性の高い9つのESG属性に焦点を絞ったサブセットです。最大の特徴は、企業が自己申告するだけでなく、独立した第三者機関による合理的な保証または評価を取得することが義務付けられた点にあります。
これにより、インドのESG報告は単なるコンプライアンスの文書作成から、財務報告と同等の厳格な監査に耐えうるデータ管理へと変貌を遂げました。
参考:SEBI(インド証券取引委員会)|通達 BRSR Core枠組み(SEBI/HO/CFD/CFD-SEC-2/P/CIR/2023/122, 2023-07-12)
2025年度における適用範囲の拡大とタイムライン
BRSR Coreにおける第三者保証の義務化は、市場の混乱を避けるために時価総額の規模に応じて段階的に適用されるグライドパス方式を採用しています。以下の表は、インド証券取引委員会が定めたBRSR Coreの適用スケジュールを示しています。
| 適用対象となる事業年度 | 対象となる上場企業(時価総額に基づく順位) | 第三者保証・評価の要否 |
| 2023年度(2023年4月〜2024年3月) | 上位150社 | 義務化 |
| 2024年度(2024年4月〜2025年3月) | 上位250社 | 義務化 |
| 2025年度(2025年4月〜2026年3月) | 上位500社 | 義務化 |
| 2026年度(2026年4月〜2027年3月) | 上位1000社 | 義務化 |
2023年度には時価総額上位150社の上場企業に対して合理的な保証が義務付けられ、2024年度には上位250社へと対象が拡大されました。そして2025年度においては、対象企業が時価総額上位500社にまで一気に拡大されます。さらに2026年度には上位1000社すべてに適用される予定であり、インド市場の主要プレイヤーのほぼすべてが厳格なESG報告の対象となります。
インドBRSR Coreが要求する具体的なESG報告項目

BRSR Coreは、国際的な比較可能性を担保しつつも、インド特有の社会経済的課題を色濃く反映した指標を採用している点が特徴です。企業はこれらの指標に関して、根拠となるデータを正確に収集し、第三者による評価または保証を受ける必要があります。
9つの重要指標とインド特有の社会経済的要請
BRSR Coreで第三者保証の対象となる9つのESG属性は、環境負荷から社会的包摂に至るまで多岐にわたります。以下の表は、その9つの指標の概要をまとめたものです。
| 指標番号 | ESG属性(評価・保証対象) | 主な測定内容と開示要件 |
| 1 | 温室効果ガス(GHG)フットプリント | スコープ1およびスコープ2の直接・間接排出量と排出原単位 |
| 2 | 水フットプリント | 総水消費量、水消費原単位、および処理レベル別の排水量 |
| 3 | エネルギーフットプリント | 総エネルギー消費量、再生可能エネルギーの比率、およびエネルギー原単位 |
| 4 | 循環型経済への取り組み | プラスチック、電子機器、建設資材などの廃棄物発生量と処理方法 |
| 5 | 従業員のウェルビーイングと安全性 | 安全事故の発生件数、および小規模都市での雇用創出(総賃金に占める割合) |
| 6 | ビジネスにおけるジェンダー多様性 | セクシュアルハラスメントの苦情件数、および女性への支払賃金割合 |
| 7 | 包摂的な発展の推進 | 零細・中小企業(MSME)や国内の小規模生産者からの直接調達割合 |
| 8 | 顧客およびサプライヤーに対する公正さ | データ侵害の発生件数、および買掛金の支払い日数 |
| 9 | ビジネスの開放性 | 関連当事者との取引の集中度、および関連当事者への融資・投資額 |
第一の指標である温室効果ガスのフットプリントでは、温室効果ガスプロトコルに従い、直接排出であるスコープ1および間接排出であるスコープ2の排出量を測定し開示しなければなりません。一次データが得られない場合は支出ベースの算定も一時的に認められていますが、排出係数や計算の前提条件を明確に文書化することが求められます。第二の水フットプリントや第三のエネルギーフットプリント、第四の循環型経済への取り組みでは、消費量や廃棄量の絶対値だけでなく、購買力平価で調整された収益に基づく原単位(インテンシティ)の開示が求められ、企業の効率性が厳格に評価されます。
第五から第七の指標は、社会や労働環境に関するインド特有の課題を反映しています。第五の指標には、一般的な労働安全衛生に加えて、小規模都市での雇用創出が含まれています。具体的には、総賃金コストに占める小規模都市で雇用された人々への賃金割合を開示することで、地方の経済発展への貢献度が測られます。第六のビジネスにおけるジェンダー多様性においては、総支払賃金に対する女性への総支払賃金の割合が指標となります。第七の包摂的な発展の推進では、零細・中小企業や小規模生産者から直接調達した原材料の割合が問われ、国内のサプライチェーン保護と育成が重視されています。
第八・第九の指標は、取引の公正性とガバナンスの透明性に関わるものです。第八の顧客およびサプライヤーに対する公正さでは、データ侵害・サイバーセキュリティ事案全体に占める顧客データ関連の割合に加えて、買掛金の支払い日数(買掛金に365日を乗じ、調達した物品・サービスの原価で除して算出)が測定対象となり、財務諸表に基づく取引先への支払いの健全性が問われます。第九のビジネスの開放性では、商社やディーラーとの取引集中度(上位10社への集中割合を含む)や関連当事者との取引の集中度、および関連当事者への融資・投資額が開示され、取引構造の透明性が評価されます。関連当事者間取引(RPT)については財務監査人による監査が別途求められる点も特徴です。
第三者による保証と評価の仕組みおよび利益相反の排除
これらの指標に対する第三者保証は、財務監査と同様に厳格なデータ追跡可能性を求めます。情報源となる請求書やメーターの検針値、社内の承認プロセスに至るまで、すべてのESGデータには監査証拠が必要です。インド証券取引委員会は企業側の負担軽減を図るため、2025年3月28日の通達により、従来の厳格な合理的な保証に加えて、業界標準フォーラムが策定した基準に基づく第三者評価を選択することも可能としました。これにより、公認会計士以外の専門家も評価業務に参入できるようになり、コンプライアンスの柔軟性が向上しました。
同時に、インド証券取引委員会は利益相反を厳しく制限しています。評価または保証を提供する機関やその関連会社が、対象となる上場企業に対してリスク管理やITシステム設計などのコンサルティングサービスを提供している場合、独立性が損なわれるとして評価業務を行うことを禁じています。企業はESGデータの収集システムを構築する段階から、最終的な独立監査を見据えた内部統制を敷くことが不可欠です。第三者評価の柔軟性導入や利益相反に関する最新の通達は、以下のインド証券取引委員会の公式文書で詳細を確認することができます。
参考:SEBI(インド証券取引委員会)|通達 ESG保証・評価枠組み等の緩和措置(SEBI/HO/CFD/CFD-PoD-1/P/CIR/2025/42, 2025-03-28)
インドにおけるサプライチェーンに対するESG情報の提供義務
BRSR Coreの最も影響力の大きい側面のひとつが、上場企業単体のみならず、その事業活動を支えるバリューチェーン全体に対してもESG情報の開示が求められる点です。これにより、直接的にはインド証券取引委員会の規制対象ではない未上場のサプライヤーや海外の取引先であっても、間接的にESG報告の義務を負うことになります。
バリューチェーン開示の要件と対象範囲
インド証券取引委員会の規定によれば、バリューチェーンの対象となるのは、上場企業の購買額または販売額のそれぞれにおいて2パーセント以上を構成する主要なアップストリームおよびダウンストリームの取引先です。上場企業は、これらの取引先に関して、自社との取引に起因する範囲でBRSR Coreの9つの指標に関するデータを収集し開示する必要があります。ただし、実務上の負担を考慮し、上場企業は情報開示の対象を購買および販売のそれぞれにおいて全体の75パーセントをカバーする範囲に限定することが認められています。
この規定は、主要な原材料サプライヤーだけでなく、販売を担う代理店やフランチャイズなどのダウンストリームの取引先も含まれることを意味し、事業に関わる広範なステークホルダーにデータ管理の徹底を迫るものです。
2025年以降のタイムラインと適用猶予の意図
当初、バリューチェーンに関するESG開示は2024年度から時価総額上位250社に対して「遵守または説明」のベースで義務付けられる予定でした。しかし、多岐にわたるサプライヤーから一貫した基準でデータを収集することの実務的な困難さや、中小企業へのコンプライアンス負担の過大さが産業界から指摘されました。これを受けてインド証券取引委員会は2025年3月28日に通達を発出し、バリューチェーン開示の適用スケジュールを修正しました。
最新の規定によれば、バリューチェーンに対するESG開示は、2025年度においては時価総額上位250社に対して任意ベースでの適用となります。また、初年度の報告においては前年度データの開示も免除されます。そして、2026年度からこれらのバリューチェーンデータに対する第三者による評価または保証が任意ベースで適用されることになります。この猶予期間は、企業とそのサプライヤーがデータ収集システムを構築し、内部統制を整備するための準備期間として位置づけられています。
しかし、規制が任意適用に緩和されたとはいえ、先進的なインドの大企業はすでにサプライヤーに対してBRSR Coreに準拠したデータ提供を取引の前提条件として求め始めており、実質的な対応の必要性は急務となっています。
日本のサプライヤーに求められる対応とインド法と日本法の違い

インド市場において現地の上場企業と取引を行う日本企業にとって、BRSR Coreに基づくバリューチェーン開示の要件は対岸の火事ではありません。日本企業が直接的にインド証券取引委員会の規制を受けない場合であっても、主要なサプライヤーとして取引先の上場企業の購買額の2パーセント以上を占める場合、ESGデータの提出を求められる可能性が高くなります。
データの収集体制と報告義務の波及
インドの顧客企業からデータ提供の要請があった場合、日本企業は温室効果ガスの排出量、水とエネルギーの消費量、廃棄物の処理状況、さらには従業員の安全指標や労働環境に関する定量的データを提供できなければなりません。特に製造業においては、炭素排出原単位や水消費原単位といった集約的な指標が厳しく問われます。
データが提供できない、あるいは提供されたデータの根拠が不明確で監査に耐えられない場合、インドの顧客企業は自社のBRSR Coreに関する第三者保証を取得することができず、結果として取引関係の見直しや契約の打ち切りといったビジネス上の深刻なリスクに直面する恐れがあります。したがって、日本企業は手作業による非効率なデータ管理から脱却し、監査証拠を自動的に追跡・保存できる高度なESGデータ収集プラットフォームの導入を検討する必要があります。
日本のSSBJ基準(サステナビリティ開示基準)との重要な違い
日本国内においてもサステナビリティ情報の開示義務化が進んでおり、サステナビリティ基準委員会(SSBJ)が日本の開示基準を策定しています。日系企業の中には、日本国内でSSBJ基準に従ってESG報告を行っていれば、インドの要請にもそのまま対応できると考える向きもあるかもしれません。しかし、両者には実務上重要な違いが存在します。
日本のSSBJ基準は、国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)が策定したIFRS S1およびS2基準と高い整合性を持っており、主に気候変動による財務的影響やスコープ3を含む温室効果ガス排出量の開示に重点を置いています。バリューチェーンの定義や開示範囲の決定においても、企業自身が財務的な重要性を評価し、柔軟に開示対象を選定することが認められています。
対照的に、インドのBRSR Coreは、気候変動リスクだけでなく、地域社会への影響や労働者の権利といった社会的側面を強く反映したダブルマテリアリティの観点を持っています。日本のSSBJ基準が主に気候関連の財務開示に重点を置くのに対し、インドのBRSR Coreでは「小規模都市での雇用創出」「零細・中小企業からの調達割合」「女性への支払賃金割合」といったインド固有の社会指標までが第三者保証・評価の対象に含まれます。さらに、バリューチェーンの対象を「購買・販売額の2パーセント以上かつ総額の75パーセント」という明確かつ機械的な数値基準で線引きしている点も決定的な違いです。
そのため、日本企業はSSBJ基準のために収集したデータ群をそのまま転用するだけでは不十分であり、インドの顧客が要求するBRSR Core固有のフォーマットに合わせてデータを再構築し、提供する準備を整えておく必要があります。
インド司法における環境と気候変動に関する判例の動向
インドにおいてESGや気候変動への対応がどれほど真剣に扱われているかを理解するためには、行政機関による規制だけでなく、司法の積極的な介入にも目を向ける必要があります。インドの最高裁判所は、環境保護と持続可能な開発のバランスに関して、国際的な注目を集める画期的な判決を下しています。
気候変動の悪影響を受けない権利の確立
2024年3月21日、インド最高裁判所は『M.K. Ranjitsinh 対 インド連邦政府』事件(M K Ranjitsinh & Ors. v. Union of India & Ors., 2024 INSC 280, Writ Petition (Civil) No. 838 of 2019)において、歴史的な判決を下しました。この事件は、絶滅の危機に瀕している野鳥であるオオノガン(Great Indian Bustard)を保護するために、ラジャスタン州やグジャラート州の生息域に設置される太陽光発電や風力発電の架空送電線を地中化すべきかどうかが争点となりました。2021年の最高裁の暫定命令では送電線の広範な地中化が命じられましたが、政府側はこれが再生可能エネルギーのインフラ開発を著しく阻害し、化石燃料からの脱却という気候変動対策の国際公約に反すると主張して異議を唱えました。
最高裁判所は、再生可能エネルギーの推進が気候変動の緩和に不可欠であると認める一方で、絶滅危惧種の保護という環境義務との間で緻密な比較考量を行いました。特筆すべきは、裁判所がインド憲法第14条(法の下の平等)および第21条(生命の権利)を拡張解釈し、国民には「気候変動の悪影響を受けない権利」が基本的人権として保障されていると明確に宣言したことです。裁判所は、気候変動による海面上昇や干ばつ、食糧不足が、人々の健康や生活基盤を破壊し、特に社会的弱者や女性に対して不均衡な悪影響を与えるため、これを平等権や生命権の重大な侵害であると判示しました。
最終的に最高裁判所は、厳格な保護が必要な優先地域においては地中化などの保全対策を維持しつつ、広範な潜在的地域の規制については専門家委員会を設置して保全とインフラ開発の最適なバランスを再検討させるという現実的な判断を下しました。この判例は、インドにおける環境問題や気候変動対策が単なる政府の政策目標や企業の自主的な取り組みを超え、憲法上の権利として司法的に保護され、追及されうるものであることを示しています。
企業がBRSR CoreのようなESG報告において虚偽のデータを提供したり実体を伴わないグリーンウォッシュを行ったりした場合、インド証券取引委員会からの行政制裁にとどまらず、ステークホルダーや環境保護団体からの公益訴訟といった重大な司法的リスクに発展する可能性が法的に裏付けられています。
まとめ
インドにおいて2025年度から時価総額上位500社へと適用が拡大されるBRSR Coreの義務化は、インド市場におけるESG情報の透明性と信頼性を飛躍的に高めるものです。特に、バリューチェーンに対するESG開示要件は、インド企業と直接的または間接的に取引のある日本企業に対しても、温室効果ガス排出量から労働環境に至るまでの厳密なデータ提供と第三者評価への対応を迫る強力な要因となります。日本のSSBJ基準とは大きく異なるインド特有の社会指標や明確な数値基準が存在するため、サプライヤーとしての日本企業は、要求される形式で適時に監査証拠付きのデータを提供できる体制を早急に構築する必要があります。また、インド最高裁判所が気候変動に対する権利を基本的人権として認めるなど、ESGを巡る法的リスクは着実に高まっています。
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モノリス法律事務所は、インド法務に関する調査および情報提供を目的として、現地法律事務所Quest IP Attorneysと非独占的な提携関係(Associate Firm / Correspondent Firm)にあります。
カテゴリー: IT・ベンチャーの企業法務



































